兵庫県の北西部に位置する養父市(やぶし)は、豊かな自然に恵まれた場所で名山と呼ばれる山も多く、冬場には県下最高峰でもある氷ノ山(ひょうのせん)や鉢伏山の著名スキー場などでもよく知られています。
この辺りは主に山間地であるため人口密度は低く、国家戦略特区の指定を受けるなど地域活性化の道程を探る状況ですが、往古の時代には山陰道が通り但馬国の交易中継点としての機能を担った要衝でもありました。
鳥取県との県境にも近く、大陸から伝わった文化との少なからぬ影響も見受けられるためか、次のような民話・・いや神話と言った方が良いでしょうか・・。面白い伝承が残っています。
『藤無山』
昔々 それはもう大昔のこと
養父の若杉にある山を西の面から登る神さまがあった
この山はここいらでも高い山であったので
神さまといえど汗をかきかき ふぅふぅ言いながら登ってきた
神さまの名は大国主 名のとおり西の大国の主やった
ところが 同じ山をこれもまた汗を拭い々々
南の面から登ってくる神さまが もう一人いた
同じ日同じ頃合いに同じ頂を目指して山を登った二人の神さま
日も高く上がった頃 山の頂で顔を合わせることとなった・・
初めて見る顔じゃな・・ 大国主は問うた
「私は出雲の国を治める者 大国主という」
「この後 但馬の国も治めてみようと この山の頂から国見をしようと登ってまいった あなたは どちら様であろうか?」
この問いに南から登ってきた神さまが答えた
「ほう これはこれは 私は天日槍(アメノヒボコ)といって新羅(しらぎ・朝鮮半島)の生まれの者です」
「この国にやってきて もう幾年たちますが もう少し住みやすき土地をと但馬を訪ねようとしているところですじゃ」
思いの外の答えに大国主は眉をひそめた
「それは困った 但馬は以前から 私が行くことになっておって家来の者たちも先に行って私が着くのを待っておる」
「失礼じゃが あなたは何処か他の土地へと行ってもらえぬだろうか・・」
穏やかな言い方ながらも言魂に力をこめて言うた
相手が無理にでも但馬に向かおうものなら 争いをも辞さぬといった意気で・・
ところが天日槍の方といえば大国主の気色など意に介さぬ様子で
「残念じゃが 私は何処へ住んでもいい身分なのだ 大和の王の許しも得ておる すまぬが そこをどいておくれ」と返したと
どうあっても我こそ但馬へ行こうとする大国主と天日槍
互いに山の頂でにらみ合いを続けていたものの やがて互いに話を詰め合うた
「やれ・・ とにかく一つの国を二人で取り合うても まわりの者が困るだけじゃ」
「ではこうしてみてはどうか 明日 この頂で力くらべをして どちらが但馬を治めるに相応しいか占うてみるのじゃ どうじゃ?」
「よかろう 請け合うた」・・
明くる日の朝
再び 頂で顔を合わせた二人の神さま
頭ほどもあろうかという大きな石に 藤のかずら(つる)を結び付けかずらの端をもって遠くへ投げる勝負へのぞんだ
より但馬の方へ石が飛んだ方の勝ちだ
一投では紛れもあろうから一人三回ずつ投げることになっておった
ところが山を登ってくるとき 二人は投げるための藤のかずらを探したのだが一本も見つからなんだ
「仕方がない 黒かずらを使おう では始めようか・・」
一人ずつ山の頂のさらに高い岩に登ると 石を結びつけた黒かずらを頭の上でブーンブーンと振り回す
勢いが十分ついたところでパッと手を放すと うなりを立てて石は遥か遠くの雲の中に消えていった
さて 互いに三つとも投げ終ると 二人は石の落ちたところを見極めようと小手をかざして探した
「わしの勝ちじゃ」
こう叫んだのは天日槍の方
三つとも但馬の出石(いずし)に落ちているのが見られたのだ
うなる大国主
「うぅむ わしのは城崎に一つ 八鹿に一つ落ちているが・・はて残りの一つが見当らぬ・・何処へ飛んだか・・」
大国主は 残りの一つを探していたが・・
「ありゃ あんなところに飛んでいるではないか 宍粟の端の ほれ!あそこの川の光っている辺り!」
先に見つけた天日槍の声にふり向いた
どうしたことか 投げたとは反対の方角に一つの石は飛んでいたのだ
「おう・・とんでもない方に飛んだものじゃ 仕方がない 勝負はわしの負けじゃ 約束どおり私は出雲の国へ帰るとしよう」
「そうしてもらえれば助かる 私は念願の但馬へ行かしてもらおう」
二人は山を降りはじめた 藤のない藤無山の麓に向かって・・
藤無山という山はお話の中だけでなく現在も養父市大屋に実在します。
養父地方では3番目に高い山だともいわれ、元々 播磨(兵庫県南部)に在所していた天日槍と、出雲国から来た大国主の二人が出会い競うには適当な舞台であったのでしょう。(大国主ルートは少々寄り道な気もしますが・・w)
この伝承は一部の史実を反映しているようで、天日槍(アメノヒボコ)の足跡を辿っているとも考えられます。
日本書紀と古事記は8世紀に成立した日本最古級の史書ですが、そのどちらにも(4世紀頃の伝承として)天日槍に関わる箇所があり、新羅国から日本に渡り住んだ王族の話が載せられています。
日本書紀においては渡来後、ヤマト王権に帰順の意を表し七つの神宝を捧げて許しを得たとされ、当初滞在していた播磨から但馬での定住を望んで移り住んだと記されているそうで・・。
それで考えると播磨から但馬へ移動する途中で、出雲国の勢力と幾ばくかの摩擦があったとしても不思議ではありませんし、何らかの折衝の後 出石に落ち着いた経緯を、今回の伝承は上手く物語っているといえるでしょう。
因みに物語で言及している出石(いずし)の地名は、当然 後々に付けられたもので、天日槍が神宝としていた “出石の小刀” や “出石の桙” に由来しているといわれ、豊岡市出石町の「出石神社」の創始ともなっています。
九州から山陰、北陸地域にかけて日本海沿岸地域は、太古の時代から大陸や朝鮮半島文化の影響を受けてきました。
大陸圏といっても現在の国家民族地理とは異なり、様々な民族が想像以上に流動的に影響を及ぼし合っていたのです。
特に天日槍や秦氏などが渡来する3世紀から6世紀頃は、王権にも大きな関わりを残す有力貴族も多く登場、日本の歴史にも少なからぬ足跡を残しているのです。
国というまとまりや概念がありながらも、まだ成熟の途上であった時代。 渾然一体となった人々の往来の中で、川の流れの波立ちのごとく数知れないドラマが生まれていたのでしょう。