想いの揺りかごは瀬戸内の小港に – 兵庫県

兵庫県の西部、瀬戸内海に面した “たつの市” 。 入り組む瀬、海に突き出した岬の一角に漁船が舳先を連ねる小さな港町があります。

凡そ地方の港町によく見られる景色でありながら。 大浦と呼ばれる湾の中でも特に波静かそうなこの里は、その名である『室津』が指し示すように古くから瀬戸内の揺りかごのひとつでもあったのでしょうか。

長閑な、今日では些かに寂れたかのごとく静かな場所なのですが、上空からの地図で見ると少しばかり奇妙な点が目につきます。

町の背に連なり立つのは室山・日和山ですがその規模は限られています。 しかし、その麓の200m程の区域の中に “日蓮宗 大聖寺” “浄土宗 浄運寺” “浄土真宗 寂静寺” “臨済宗 見性寺” “浄土真宗大谷派 徳乗寺” と5つもの寺院が漁村を見守るように並立しているのです。

多少なりとも規模があり整備も進んだ城下町であれば 寺院などを一カ所に集めた “寺町” もあるのですが、この地勢この範囲で五カ寺というのは 他の地ではあまり見ない状況・・。 どのような背景があるのでしょうか?

 

実はこの『室津』、往時には “室津千軒” と呼ばれるほどの人口密集地であったそうです。

過密になるほど人の増える場所には当然ながらその理由があります。 それは上でも触れたように室津の港が古くより瀬戸内において絶好の寄港地として機能していたこと。

江戸時代にあっては漁業港としての発展はいうに及ばず、北前船など物流の中継地点としても重要な役割を果たしていました。 さらに西国大名の参勤交代における寄宿地としても欠かせない場所であったのだとか。

また、室山の山頂には今も僅かに名残を残す “室山城” がかつてあり、それは江戸時代には既に土と帰していましたが、室町時代まで赤松氏・浦上氏によって経済的価値の高い港を堅守する側面が大きかったそうです。

京・大阪と大瀬戸そして遠く北の国、また西国と江戸の地を結ぶ結節点として室津の港は、戦の世の終焉と引き換えに急激な発展と栄華の時を迎えたのでしょう。

 

多くの人が住まい行き交い 多くの物や金銭が流れる場所となれば、そこに大きな商いが生まれ有力な商人が生まれるのは当然の流れ。

山中の狭い区域に五つもの寺院が興った背景には、町の安寧を願うとともに、一族の菩提供養や発展を願う豪商の後ろ盾があったであろうことは想像に難くありません。

有力者によるものであり、同時に庶民の心安らぎ導く場として五カ寺は有機的にその威光を放っていたのかもしれませんね・・。

そして、都市に匹敵するほどの賑わいをもった町には聖とは対成す歓楽の場が芽生えることもまた事実です。

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室津が爆発的な発展を見せたのは経済の重要性が高まった江戸時代以降ですが、先にも述べましたように 港としての機能性はもっと古い時代から重要視されていました。

それは武士が台頭する以前の頃からであり、その当時から室津は相応の賑わいをみせていたようです。

これは室津だけの話ではありませんが、多くの船人が行き交い活気のある港にできる商売のひとつが “遊廓”。 命がけで海に働く男達のひとときの慰安の場として数多の港に存在したのです。

故にそこには星の数ほどの情話が生まれ、時に不思議で趣深い伝承が伝えられています・・。

 

浄土宗の宗祖と崇められる “法然”(平安末期〜鎌倉時代)。
幼くしてその才覚を認められ、天台宗の本山比叡山に上がった後も その智慧留まるところを知らず、18歳にして法号を賜るほどに至ります。

衆生救済の思いから “南無阿弥陀仏” の念仏を唱えるのみで浄土が約束されるという簡潔な論法を創始し浄土宗を立ち上げますが、それが因となって他宗との軋轢を招いてしまいます。

結果的に後鳥羽院の心証を害したことにより、僧籍を剥奪され土佐国への配流(流罪)の憂き目となってしまいました。

京を追放され四国へと渡る前に立ち寄った場所が室津だったのです・・。

法然上人(披講の御影)

当時から室津は多くの船と人が行き交う賑わい高い港。そこには慎ましやかに生きる者もいれば羽振りの良き者もいる。そして生きることに意味を見いだせず苦しみの中にある者もいる。

如何なる者へも浄土へ道を教導するという噂を聞き、法然のもとを訪ねたのが “トモ” という名のひとりの遊女でした。 田舎に見合わぬ様相から地元では “友君” と呼んでいました。

遊女という決して誇れぬ身を嘆くにとどまらず、彼女には人智を超えるような生い立ちをもって その因果因縁に苦しんでいたのです。

然もあらん、彼女は破竹の勢いで台頭した木曽義仲の側女であり、その後 都落ちそして討死した義仲に分かれて一人室津の里にまで落ち延びて来ていた身なのでした。

ひとときの栄華と主の喪失、そして凋落の今に我が身の因業を訴える友君に法然は

「かりそめの 色にゆかりの恋にだに あうには身をも惜しみやはする」

(ひとときの儚い情愛による恋にさえ、逢瀬のために身をも惜しまず人は打ち込むのだから、阿弥陀仏の真髄に巡り逢うためには尚さら身を惜しまぬことがあろうか)

との歌を贈り、 そして紺紙(写経のための用紙)と袈裟、さらに “紺泥” の名号を与えて、友君に求道の灯りを諭したそうです。

室津港に降りる友君橋のたもとに立つモニュメント

 

“紺” は仏道においてとても尊い意味をもつ色。友君を単に教化するだけでなく、そこに法然の大きな想いを込めた手筈が伺えます。

過ぎ去った自らの業に囚われることなく “今を生き” “何人(なんびと) とも変わらない救われるべき存在” として認められたことで、彼女は苦から解き放たれ解脱への道を歩みはじめたのでしょう。

師の導きに応え、友君は法然の姿を形取った像を手ずから作りそれを奉じたと伝わります・・。

この伝承は五カ寺の一院 “浄土宗 浄運寺” に紡がれるもので、友君が作った上人像も安置されているそうです。

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浄運寺にはこの他にも商家人の密通悲話 “お夏清十郎” にまつわる逸話が伝わります。

また室山城の終焉には当時の主家 浦上氏が婚礼の夜に夜襲を受け滅ぼされたことから、それを悼む民によって “八朔のひな祭り” として現在もその想いが引き継がれています。(御津町室津や対岸の香川県三豊市仁尾町では8月にひな祭りが行われる)

経済も物流も大きく変化した現代では、波穏やかなささやかな漁村ですが、そこには千軒の栄華の中で生み出された悲喜こもごもの伝承が息づいています。

瀬戸内の船の揺りかごは、まさに人々の想いの揺藍でもあったのでしょう。

室津の港を訪ねる機会があったときは、少しだけ このような往古の影を思い出してみるのもいいのではないでしょうか・・。

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