その花の紅は錦の輝きにまで至る – 山形県

花序” とは、植物の花が茎や枝にどのように配列されているかを表す用語です。花序の形状や配置は、植物の分類や特性を理解する上で重要な指標となります。・・“ AIによる説明。

難しい理屈はともかく、植物の花の付き方のことです。

以前お送りした “兵庫県宍粟市のりんご” 記事のときにも、花序構造について少しだけ触れましたね。バラ科の植物は一つの芽から多くの花序を咲かせる傾向があるそうです。(観賞用のバラは別)

普段、何気無くただ綺麗だと思って見ている花にも、様々な構造や様態がそこに息づいているのです。

例えば “タンポポ” の花などは一つの茎に一つの花が咲いているように見えますが、実はあれ “舌状花” と呼ばれる小さく細長い一枚花弁の花が、円周状に多数咲いて一つの花のように象られているのだそうです。

これを “頭状花序” と言い、キク科の花によく見られる構造なのだとか。 まさに自然のバレエダンスとも言えるでしょうか。

同じ頭状花序である「ベニバナ」がこの6月から7月にかけて花期を迎えます・・。

 


「ベニバナ」。名のごとく紅色の染料を得られる花として永く日本人に親しまれてきました。

採取した花弁を水洗いして紅以外の色を抜き その後発酵。すり潰して粘土状になったところで丸めて数日間乾燥させたものを “紅餅” と言い、花弁をそのまま乾燥させたものに比べ より鮮やかな紅色を効率的に採れるのだそうです。

「紅餅作り」→YouTube

平安時代には既に計画的に栽培が進められ、”紅餅” は徴税品としても機能していたそうで。

そこから採れる紅の色は古代、貴族のみ着用が許される禁色となるほど 貴重に扱われ愛されてきた色でした。 江戸時代に至って祝いや願いを託す色として特に珍重され、一般にも馴染み深い色として広まっていきました。 化粧として用いられる紅にも、ときに特別な想いが息づいているのでしょう。

“生(セイ)” の色である “紅” 、 “新た” なる “白” と合わせて “ハレ” を司る極めて大切な色。 日の丸ともいわれる日章旗の日の色も実は赤ではなく “紅” なのです。

 

同時に、乾燥させた花弁には血行促進などの薬効もあり、(古くよく処方されていた)”葛根湯” の成分などをはじめとして和漢薬の一つとして認知されています。 多少 近いところでは “養命酒” にも含まれていますね。

また、鎮痛・鎮静作用、冷え症や生理不順などにも効果があることから、古くより婦人薬として重用されてきたそうです。

さらに昭和中盤になるとベニバナの種子から採れる “紅花油 / サフラワー油” が注目を浴び、高級食用油として脚光を浴びるようになりました。 含まれていたリノール酸にコレステロール値改善の効果があったことから人気を博しました。

只、何事も過ぎたるは・・のごとく過剰摂取の弊害が取り沙汰されるようになり、当時のハイリノールタイプから、現在はオレイン酸優勢のハイオレイックタイプに置き換わっています。

いうなれば、それだけ薬効果のある証左ともいえましょうか。

 

遠くエジプトから地中海沿岸を原産地とするベニバナ。 はるばるシルクロードを辿り大陸から日本にもたらされたのは5世紀前後、一説には日本初の女帝 推古天皇の時代だったともいわれます。

時下り平安時代にあっては上記のとおり大掛かりに栽培が始められましたが、その起こりにはあの学問の神様 “菅原道真” の子孫が関わっているそうです。

ご存知のように道真公は讒言によって九州大宰府へと左遷され当地に没しました。

しかし後にその名誉は回復され、不遇をかこつていた彼の一族もまた奉職に復するところとなりますが、一部には都を離れ東国(現在の関東地方)に出向する者もあったそうで・・。

 

その中の一人が道真の子とされる “菅原滋殖”(別説に善智麿)。 上総国(現在の千葉県)に渡った後、その地を気に入って安住し “長南氏” を名乗ると、代々の知見であったベニバナの栽培を広めたと伝わります。

以降、500年に渡り上総はベニバナの産地として定着していましたが、15世紀 室町時代になると、足利成氏が鎌倉をはじめとする東国一円に勢力を延ばしたことにより長南氏は敗北。 北遠に逃れ当時の出羽南部(現在の山形県)に逃れることとなりました。

出羽、最上の地を新たな故郷とした長南氏はここでもベニバナの栽培をはじめました。 温暖な上総とは異なる気候にも屈することなく耕殖に努め、やがて最上は上総を上回るベニバナの一大産地となったのです。

江戸時代に至り、色染が津々浦々の文化・風俗として行き渡る頃には、西(阿波)の “藍玉” に対し東の “最上紅花”。 日の本で双璧を成す染め材料として知られる特産品にまで上り詰めたのでした・・。

 

ベニバナから採れる紅の色は布地の染色だけでなく、口紅や頬紅などの色材としても利用されます。

「小町紅」として発売された京の口紅は全国的な人気を博し、後の時代の口紅の基礎ともなり得ました。 塗り重ね赤みを増した色合いは仄かな偏光を発し(メタリックカラー)、当時の女性たちを虜にしたそうです。

現在の口紅にもそういった発色のものもあり、300年の時を超えて続く艶麗の色、女性の憧れとも言えるでしょうか。

そうした紅が持つメタリックカラー(もしくはマジョーラカラー)の成分は、突き詰めると眩いばかりの輝きを放つ錦色にまで到達するそうで・・。 これを応用して仕上げられた塗り物には得も言われぬ美しさ・妖艶さが感じられますね・・。

画像は「株式会社伊勢半」より。クリックでHP開く。

明治時代以降、安価な化学染料が普及し ベニバナの需要はかつてほどの精彩は失われました。

しかし、天然素材ゆえの風合いは今も愛され続け、希少で高級な色材として重用されているのです。

ベニバナの里とも呼ばれる山形県河北町には、旧家を利用した「河北町 紅花資料館」があります。 江戸時代、ベニバナの豪農であった堀米四郎兵衛 屋敷が町に寄贈され1984年(昭和59年)から運営されています。

ベニバナの農産にまつわる貴重な資料のみならず、当時を偲ばせる数々の文物はこの資料館でのみ観覧できるものばかりでしょう。 また170年の歴史を語りかける建築の妙も見どころ。

百年千年と続き、人を惹きつけてきたベニバナの歴史に想いを馳せながら、初夏の山形最上を巡る旅・・如何でしょうか・・。

「河北町 紅花資料館」河北町ホームページ

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