“素朴画” と言うそうです。 敢えて分類するなら確かにそんな感じのカテゴリー分けが合うのでしょうね。 ・・只、あまりそういったレッテルに収めてしまうのには少し違和感を感じてしまいます。
ましてや “ナイーブ・アート” などという横文字などは、私にはなおさらしっくりきません。 彼の描く絵は彼自身のもの以外の何ものでもないのですから・・。
彼の名は “原田泰治”(はらだたいじ)、画家でありグラフィック・デザイナーですが、そんな肩書きよりも少し懐かしく心安らかな彼の作品でつとに知られ、愛され続ける人ではないでしょうか。
『原田泰治の世界をキルトで遊ぶ』 ユニークで暖かな作品展が、4月6日まで長野県諏訪市の「諏訪市原田泰治美術館」で開催されています。
昭和15年(1940年)当時の諏訪郡上諏訪に4人兄弟の末っ子として生まれた原田泰治は、生後間もない頃に罹患した小児麻痺が原因で、両足に障害を抱えた人生のスタートとなってしまいました。
戦争の暗雲が濃くなる世情。 家族で長野県南部の下伊那に移り農業に従事する中、制約を持つ身にあって苦労は絶えなかったでしょう。 しかし、家族の深い愛情と長野の豊かな自然、牧歌的な農村の風情に抱かれて泰治は挫けることなく真っ直ぐに育ったようです。
自由に移動することが難ではありましたが、動けぬことが却って彼の “ものを見る眼” に深みを与えたのでしょうか。 野原や窓際の一角に佇み眺め続けた田園風景が、後に描く作品の底流を成していることは想像に難くありません。
人生の指針に大きな影響を与えたきっかけが、元々 諏訪で看板屋を営んでいた父の事業再開でした。父方の家系には芸術肌の人が多かったそうで、その素質は泰治にも脈々と受け継がれていたのでしょう・・。
定時制の高校に通う傍ら昼間は絵を描くという生活を続けながら、コンクールなどで入選を重ね自信を培っていきます。
まだ “絵画” と “デザイン画” の両手持ちであったため、それが元で美大入学には二度手間を踏んでしまい、昭和36年武蔵野美大商業デザイン科に再入学。 デザイン画への地歩を固めていきました。
とはいえ、そのまま社会に出たところで簡単に絵の仕事が舞い込んでくるわけでもありません。一時都内に勤めたあと故郷である諏訪に戻り地道に展覧会を興していったそうです・・。
そんな頃 知ることになったのがクロアチア出身の画家 “イワン・ラツコヴィッチ” による絵画。 独特な画風にありながらも生地バティンスカに寄せる望郷にあふれた素朴な絵は、泰治の方向性に深く影響を及ぼしました。
デザイン業の傍ら絵画にも本腰を入れて描き続けます。 自らの想いの上に作風を築き上げ社会的な認知の第一歩となったのは、幼い日その目に焼き付けた下伊那の農村風景でした・・。
原田泰治の作品は 絵画としての重みを持ち確立しているものと、要望(依頼)に沿って描かれるグラフィック・デザインとしての作品の両翼によって成立しています。
しかしデザイン作品の方にも、そこに商業主義的な色彩が見えないのは、彼の描く世界に彼自身が抱き続ける “素朴な視点” が息づいているからでしょうか。
彼が選ぶ風景は風光明媚な景勝地や観光地ではなく、誰も知らないようなひなびた田園であったり、町外れの一角であったり。そして、そこにあるのは “映え” などとは無縁の静かでどこか懐かしいひととき。 それはデザインにも現れており、蝶にも草にも鳥にも不要なてらいは一切見られません。
グラフィックとしての存在性をも内に秘めながら、誰もが懐かしき日に想いを馳せるような暖かい風景。 それは素朴画というカテゴリーを超えて、原田泰治の人生そのものといえるのではないでしょうか・・。
『原田泰治の世界をキルトで遊ぶ』絵画キルト作品展−技法を紐解く− は、「諏訪市原田泰治美術館」で2004年に開かれた「絵画キルト大賞」を母体に開催される美術展です。 ※ 原田泰治美術館の名誉館長は親交の深かったさだまさし氏
原田泰治の絵をパッチワーク・キルトで表現するというユニークな作品展で全国・一般から応募を募り、出展作品とオリジナル絵画を併展し受賞形式で続けられてきたものの、2020年に惜しまれつつ一旦終了しました。
以後も美術館ではそれら過去のキルト作品を毎年テーマを変えながら展示してきましたが、今回の作品展ではそれらキルトアートの作り方・技法に焦点を合わせながら、作品の展示も併開催するという美術展となっています。
諏訪湖を目前に静かに佇む美術館、心に息づくあの日の風景を訪ねてみられてはいかがでしょうか・・。