240年前にロシアを見た男(後)- 三重県

240年前と現在で単純な比較は出来ませんが、サンクトペテルブルクの年間平均気温を見てみると、日本の北海道・網走市辺りと似たような感じとなっています。 白夜も続き 相当寒いことに変わりはありませんが、想像を超えて・・という程ではないのでしょうかね。

18世紀頃のサンクトペテルブルク

網走市に比べて15度もの緯度差があるにも関わらず(北極に近い)そこまで氷に閉ざされた都ではない・・というのも、ヨーロッパ西岸海洋性気候ゆえなのでしょう。

ロシア冬季の王宮であり、冬宮殿とも呼ばれる「ズィムニイ・ドヴァリェーツ」が置かれたことからも、ロシア国内では過ごしやすい場所であったことが伺われます。

まして5月から6月のペテルブルクは最低気温で9℃、最高気温は20℃程にもなるそうで、遅まきながらの春に華やぐ爽快の季節でもありました・・。

 

流れ着いたものは、人といえど全てその国のもの。再三の帰国願いにも関わらず、日本語の伝教に務めるためロシア国内に留まることを強いられ続けた光太夫ら一行。

友人キリル・ラクスマンの尽力が実を結び、最後の望みともいえる最高権力者への直訴が叶ったのは1791年5月も末(一説に6月末)であったといわれます。

当時のロシアの最高為政者はエカテリーナ・アレクセイエヴナという女皇(第8代皇帝 / エカテリーナ2世)。ロマノフ朝ロシアの黄金時代を築き上げ “大帝” と呼ばれた女傑でもありました。

女皇エカテリーナから光太夫らに、日本に関する質問をいくつか取り交わした後、光太夫から帰国の願いが申し立てられます。

手の甲に接吻と拝礼を受けた後、帰国嘆願書に目を通した女皇は「ベドニャーシコ(これは憐れむべきこと・・)」とつぶやき、光太夫らの境遇に同情を示したそうです・・。

その年の10月再び王宮に召され、女皇手ずから煙草入れを下賜された上で正式な帰国許可を与えられました。
漂流から8年、ようやく帰国への道が開けたのです。

 

翌年1791年の春、キリルとともにイルクーツクを発った一行は2500kmの道を踏破し8月にはオホーツクまで戻ります。 その後、キリルの息子アダム・ラスクマンとともに船で南下、10月9日 北海道の根室へと接岸されました。

女皇の決裁をもって帰国が叶った光太夫たち。しかし、これは彼女の慈悲によるもの・・というだけではなく、ロシアとしての思惑も少なからず絡んでいたようです。

この頃 既にシベリア地方にまで領土を有していたロシア帝国は、拡大支配した東方地域の物資調達先を模索していました。 イルクーツクからオホーツク間の移動に光太夫らが3ヶ月を要したように、まだ未開ともいえた陸路での物流には限界があり、極東の国から獲得した方が合理的であったからです。

しかし、当時のロシアと日本は互いに “そこに確立した国が存在する” 程度の認識しかなく、国交はおろか知見も殆どありませんでした。

対外的思想に秀でていたキリルの思想を受け継いでいたであろう、アダム・ラスクマンを特使として光太夫らに同行させ、日本との通商交渉を図っていたのです。

 

突如、根室に現れた異国人とその船、送還された漂流の日本人。
当地の管轄であった松前藩は大騒ぎ、彼らを保護するとすぐに幕府へと連絡。日本人2名※の引き渡しと通商交渉の意向がロシア側にあることを伝えます。 ※ 漂流者の一人 “小市” は根室到着直後に病死したため、最終的に帰国できたのは “光太夫” と “磯吉” の2名だった。

幕府もこの知らせを驚きをもって受け止めました。しかし、光太夫らの引き取りはともかく、当時は鎖国政策の最中だったため安易に交渉を受けるわけにもいかず、通商交渉に関しては先延ばしの方策をとったようです。

その後、日本人2名の引き渡しが松前にて行なわれました。幕府の意向によりロシア人たちも丁重に扱われましたが、通商に関しては着手されず、結果的にラスクマンらはオホーツクに向かって帰国の途につくことになりました。

 

10年の歳月を賭して15名の仲間が2名にまで減り、ようやく故国の土を踏んだ光太夫らの感慨は如何ほどであったでしょう・・。

そして、幕府にとっても彼らはロシアの事情を知る貴重な人材でもありました。 光太夫と磯吉は江戸へ送られ江戸城内の吹上御苑にて聴取の対象となります。

医師であり蘭学者であった桂川甫周が聴取役として召し出され、将軍 徳川家斉 上覧のもとロシアについて様々な質問に答えたそうです。

ロシアの文化や風俗 また軍事力。日本に対する認識度や関心など次々と繰り出される質問に対して淀みなく答えていく光太夫。

この中でロシアには光太夫たち以外にも漂着日本人がいて、ロシアによる日本語や日本の文化など吸収・研究が進められていること。 ロシアが極東地域への覇権を含んだ拡張意図を持っていることなどが伝えられ、これ以降、幕府は蝦夷地以北への警戒感を強めていくことになります・・。

政治的にも重要な人物とみなされた光太夫と磯吉。残念ながら故郷への帰参が許されることはありませんでした。

その代わり番町明地薬草園に居宅を与えられ、そこで生涯を過ごしたと伝えられます。 故郷の親族にもこのことは伝えられ 彼らがこの居宅を訪ねたり、帰国の10年後には只一度 一時的な里帰りが許されたという記録も残っています。

 

光太夫の聴取でも触れましたが、ロシア領土への漂流民は光太夫らが初めてではなく、彼らの80年前には “伝兵衛” なる人物が暴風に流されロシアに確保された挙句、現地で日本語の教師となりピョートル1世にも謁見した記録が残っています。 その他にも “三右衛門” “権蔵” など数度の漂着民があったそうです。

彼らの大半は現地に骨を埋めました。 光太夫たちはロシアの首都まで行き、そして帰国を果たした初めての日本人ということになるでしょう。

漂流の果て生命を取り留め 激動の人生を送った人物といえば、光太夫の約60年後に土佐から漁業に出て遭難、伊豆諸島の辺境に流された後、アメリカ捕鯨船に救われ渡米。後に帰国して幕閣にまで登用された “中浜万次郎 / ジョン万次郎” が著名ですね。

いずれにせよ彼らの生きた人生は常人では考えられないほどの苦難・苦労とともに、生のエネルギーと未知の体験に彩られているのです。

光太夫の故郷である三重県鈴鹿市神戸(かんべ)には光太夫の偉業を伝える「大黒屋光太夫記念館」が置かれています。 運命のいたずらから、生死の境を述べ25000kmにも渡って生き抜いた男の片鱗に触れる資料館。 機会があればお立ち寄りください・・。

『大黒屋光太夫記念館』 公式サイト

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