臆病な話ですが、何が怖いといって “海” ほど怖いものはありません。 ・・などと言ったら海の好きな方からお叱りを受けるかもしれませんが、いや本当に怖いです。
もちろん晴れ渡った海原を見れば美しいと感じますし、船を利用して旅行したことも何度もあります。
しかし、何というか あの膨大無限の水の量、深い所では高山を幾つも呑み込んでしまう程の深度、太陽の光さえ届かない暗黒の世界を擁する海に潜在的な恐怖を感じてしまうのです。
“カナヅチ” というわけではなく泳げはするのですが・・。 中学生の頃、一度 岩場の傍の海に一人で潜ったことがあるのです。 せいぜい3~4メーター程度の深さだったのですが、何も聞こえない(ように思える)世界、沖の方向に沈んでゆく鈍色の闇、そして頭上にのしかかって感じる無量の水圧・・と、パニックにはならなかったものの “あぁ、自分にはダイビングはとても向いていない・・” とその時 思い知りました。(^_^;)
ですから海を生業として働く方々には畏敬の念を感じてしまいます。 特に比較的 小型の船舶を操って海原に乗り出す漁業の人々には壮烈な精神力の持ち主なのだと思わずにはいられません。
好きだからこそできる仕事なのでしょうが、実際、船に乗る仕事は常に危険と隣り合わせ。 技術の進んだ現在でさえ事故の可能性は免れないのですから・・。
いわんや、造船技術はおろか航海図さえ未熟の時代に船一艘で海に出るのは、まさに “板子一枚下は地獄” の境地。 それでも人はいつの時代も その気概と夢に賭けて荒波に挑み・・。 時に流され漂ってきたのでしょうか・・。
今から240年の昔、極北の海を漂流しベーリング海からオホーツク海の島々を渡った後、ロシア本土に上陸。ついには、大女皇 エカテリーナ2世に謁見まで果たした日本人漁師がいました。
その人の名は “大黒屋 光太夫(だいこくや こうだゆう)”。 1751年(宝暦元年)伊勢国、現在の三重県鈴鹿市南若松(当時:南若松村)において、船宿を営む一家に生まれました。
幼名を “兵蔵” といいました。
南若松は地図でも分かるとおり伊勢湾を眼前にした小さな浜町であり、兵蔵も幼い頃から海に遊び親しんだのでしょう。 次男であったため船宿の家督は継がず、長じて一旦 親戚筋への養子となりますが、南若松から程近い “白子” に居住まいを定めて廻船問屋の船頭として働き出します。
日経たずして船乗りとしての頭角を現した兵蔵は “沖船頭”(船舶運航の責任者:船長格)に認められ名も “大黒屋 光太夫” と改めます。 ”居船頭(船主)” ではないものの、船乗りとしては一端の出世といったところでしょうか・・。
力量を認められ、それこそ順風満帆の人生であったはずの光太夫でしたが、事件はその3年後に訪れます・・。
1783年(天明2年の師走)江戸に向けての米廻船 “神昌丸” を、16名の水子(かこ:船員)らを率いて白子から出航させた光太夫。 伊勢の湾内から遠州灘に出たところで折からの暴風に流され始めます。北西へ向けて舵を取りたい光太夫らの努力も虚しく、北東へ向けた風はいよいよ強く吹き荒れ陸地は遠のくばかり。
ついには帆は破れ舵も折れ、船は創痍となりながら漂流の憂き目にあったのでした。
不幸中の幸い、米廻船であったため食いつなぐことはできましたが、大海の真っ只中を漂う間に水子の仲間をも失いました。 果てなく流された船が日本から4000kmも離れたアリューシャン列島の一角、”アムチトカ島” に漂着したのは漂流から7ヶ月後のことであったといいます。
アムチトカ島では、原住民たちや この島にアザラシの毛皮を採りに来ていたロシア人らと遭遇しますが、彼らに受け入れてもらい この島で暮らすことになりました・・。生きてゆくためにここでロシア語も習得したそうで・・。
途中、ロシア人達を回収するためのロシア船がこの島に来訪しますが、事もあろうに接岸の寸前に座礁して大破。助けてもらうどころか漂着民が増える事態に・・。 壊れ落ちてゆく船を見る光太夫や島のロシア人達の落胆は想像以上のものだったでしょう・・。
しかし、光太夫はここで諦めず人々を率いて難破船の改修に乗り出します。
到底 無理と思われた作業を成し遂げ、なおも不安の多々残る船を操ってアムチトカ島を脱出したときには、漂着から4年もの歳月が経っていたといわれます。
有り合わせの材料、おぼつかない造船技術でこしらえた改修船でしたが、途中 難破に見舞われることもなく西への航路を進みます。
カムチャッカ半島で一時上陸、再び海を超えてハバロフスクの海辺の町オホーツクに接岸、ロシア領土へと足を踏み入れました。 途中、寒さや飢餓のため多くの仲間を失いながらも、アムチトカ島出発から1年半後の1789年(寛政元年)2月9日、ついにバイカル湖の湖畔、ロシアの交易都市であった “イルクーツク” へ到達したのでした。
出港時、17人だった仲間は このとき既に5人にまで減っていたといわれます・・。
ようやく大きな町に辿り着いた光太夫らは一息つくと、早速 日本へ帰るための準備を始めますが、そこは異国の地のこと、勝手に帰国することはできません。
総督府に対し帰国の許可を申請しますが却下されてしまいます。 当時のロシアは極東海域の覇権と日本との交易を模索していたため、光太夫らを通訳や日本語教師として当地に留め置きたかったのでしょう。
度重なる申請も黙殺され苦しむ日々・・。この間にも仲間の庄蔵が予てからの病を拗らせて片足を失う事態に。庄蔵は帰国を諦めロシアへ帰化することになりました。 さらに同じ水子仲間の九右衛門も病死・・、漂流の民はついに3人となってしまいます。
そんな暮らしの中出会ったのがフィンランド出身、ロシアで活躍していた博物学者 キリル・ラクスマンでした。
異国での孤独と望郷を訴える光太夫たちの境遇に同情した彼は、当時の首都サンクト・ペテルブルグへ出向き、より高位の権力者に直接 帰国の許可を訴えるよう提案します。
1791年5月ラスクマンに伴われ・・、おそらくは最後となるであろう帰国嘆願の旅へと出発したのでした・・。
光太夫達がここまで来れたのは、船の遭難時、一定の食糧を積んでいたこと、極北の島まで流される間 徐々に寒冷期から温暖期に向かう気候であったこと。 そしてその後の最低限度の生活が保てたことなどが要因として挙げられるでしょうか。
しかし、その間にも仲間の大半が次々と病や飢餓に斃れ、帰らぬ人となりました。 残る彼らが10000余キロを踏破して大国の首都にまで至った快挙には、幸運とともに人並み外れた精神力・諦めぬ心を持ち続けていたが故かもしれません。
日本帰国への最後の機会。どうなりますでしょうか・・。