前編でご案内した “芋掘り藤五郎” 伝承。 前回とはまた別のお話をご紹介したいと思います。
とりあえず、物語としては前回のお話に続く後日譚的な形になるのでしょうか? 藤五郎と和子(わご)は既に夫婦であり、些かなりとも暮らしも安定しているように見受けられます。
そんな藤五郎夫婦のもとへ、ある年の大晦日の晩に奇妙な訪問客が訪れました・・。
『三頭の神牛』
「ゴン・・ゴン・・」 妙に重々しい音で戸を叩く音がする
こんな大晦日の晩に いったい誰が来たのじゃろう?
村の者であれば声を上げるじゃろうし 戸を叩くにしてもどうも妖しげな心持ちじゃ
そうこう思うておるうちに戸を叩く音も止んでしもうた
後は夜の静けさが続くばかり・・
これは迂闊に見に行かぬ方が良かろう
朝になるまで様子をみた方が良かろう
藤五郎は和子を奥の間にやりながら じっと夜明けを待ったのだと・・
空が白んで山の彼方からお天道さまが顔を覗かせた頃
外に出た藤五郎は眠気も飛ぶほど驚いた
戸口の前には輝く三つの大きな塊が居座っているではないか
よく見れば それら一つ一つは牛の形をしておるようにもみえる
このことはすぐに在所に知れ渡り 村人たちが代わる代わる見に来たのだと
すると その中から聞こえてきた話に
古来 この近在には黄・白・黒色の三頭の牛が晦日の晩に現れ
身上の良い者の家に福をもたらす・・という伝えがあるという
調べてみると三つの塊はそれぞれ金・銀・鉄であった
山の神のお導きか・・ 畏れ多いことと藤五郎夫妻はそれら三つの宝を我が物とせず 鋳造師に頼んで阿弥陀如来と薬師如来の仏像を作らせ 在の伏見寺に奉納したという
村人たちは この三頭の神牛が降りてきた山を三代山と呼んだそうな
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藤五郎と和子による活動については今回ほとんど触れられておらず、思いがけず舞い込んだ福を公の功徳に役立てたという話だけです。
前回において、藤五郎や和子は貧乏な暮らしにありながらも村の人々に施し続けた形でありました。 ・・今回の話の中で特に書き留めなかったのですが、原文の中には “長者” という文言もあり、このとき多かれ少なかれ余裕のある暮らし向きであったことが伺われます。
それでも話の内容が、徳のある者に福が舞い込み その福をまた人々に分け広げてゆく形となっているのは、当地において藤五郎夫妻への敬意が既に形成されていたが故でありましょう・・。
話の終盤に出てくる “伏見寺” は藤五郎と縁が深く、次のような伝承もまた残っています。
『妙色の薬師如来』
ある夜のこと 藤五郎は不思議な夢を見たと
深い暗闇の向こうから仄かな灯りがさしている
よくは分からないが何やら有り難い後光のような気がして
藤五郎はずっとその光を見つめておった
するといつの間にか 光は段々とその輪を広げて
やがて眩いほどの輝きが 藤五郎の夢の最中を照らすようになった
そしてさらに その光の向こうに誰かが立って 藤五郎に何かを語りかけておるではないか
何を言っておるのか定かには分からぬが 藤五郎にはその語りかけが分かるような気がしたと・・
翌朝 藤五郎は何かに導かれるように家を出ると犀川の袂までやってきた
そして 何ということもない荒れた脇道の一角を見つめておったが
やがて持ってきた掘棒で一心不乱に土を掻き分けだしたそうな
どれだけ掘っていたであろう
ふと掘棒の先に手応えを感じて土中から掘り出したのは 長さ一寸八分の小さな薬師如来像であったと・・
その薬師さんは小さいながらも赤く黄色く不思議な輝きを放っておる
知る人に聞かば それは “閻浮檀金(えんぶだごん)” という誠に珍しく
また有り難い金の宝であるとのこと
藤五郎は薬師さんを掘り当てた場所に祠を建て
丁重に祀って 以後 礼拝供養を怠らなかったという
幾年もの時が経ち この地を訪れた行基上人が この祠に特なる霊感を感じ建立したのが
今に続く “行基山 伏見寺(ふしみじ)”
伏見寺には 藤五郎夫妻の徳を偲んで その木像や墓 藤五郎所有の刀剣などが残っている
また 山科の藤五郎の屋敷跡には 藤五郎が鍬をかけたというクワカケの松や小さな祠があり 中には藤五郎の石像が祀られていたという
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「行基山 伏見寺(ふしみじ)」は現在も壮健の寺院で、金沢市寺町の一画にあります。
寺町の名のごとく周辺は多くの寺院が集っており、「加賀忍者寺に紡ぐ歴史と妙なる異聞」でご案内した “忍者寺”「妙立寺(みょうりゅうじ)」もすぐ近くの場所。
上の話は単なる民話ではなく、伏見寺の由緒正しい縁起のひとつとして伝えられており、藤五郎は “開基” として扱われているのだそうです・・。
さて、ここまで話をご案内した上で、ひとつ話しの最後に引っ掛かる部分がありますね・・。 “藤五郎所有の刀剣” という部分です。
この刀剣が史実のものかどうか詳細は不明ですが、前編のお話で “貧乏の極み” のように語られていた藤五郎。 どうも一介の民草ではないように思えますね。
実は “芋掘り藤五郎” と呼ばれた人物、元を辿れば藤原の北家魚名流 “藤原吉信” の子孫であり、れっきとした貴族の血を引く者という一説があるようです。 藤五郎の “藤” は “藤原” から取られたものなのでしょうか?
何の因果か、何を思うての隠棲か、不自由なきながらも喧騒にまみれた貴族社会を捨て、静かで己の身以外煩うもののない山里での暮らしを選んだのだとか・・。 確かに飄々とした気風で、砂金の輝きにさえ心動かされることのない “芋掘り藤五郎” の人物像には、そういった超俗的なものを感じてしまいますね・・。
只、この “藤原吉信の子孫” というキーワードから考えると、少々時代的な錯誤が生じてしまいます。 藤原吉信は平安時代中期の人物であり、藤五郎や行基上人、伏見寺といった所在は奈良時代も はじめの頃のものなのです。 意外と古い話ですね。
藤原氏の出自を間違って伝えたのか、そもそも藤五郎の存在そのものが不明瞭なので、その時代が違うのか分かりませんが・・。
一つ言えるのは、おそらくではあるものの、藤五郎、そして和子のモデルとなった夫婦は実在していたであろうということ。 多くの遺物が遺され、金沢での土着性が高いことは単なる民話の主人公としての枠を超えるものといえるでしょう・・。
貧乏な芋掘りであれ、裕福な長者であれ、その人が存在し、その誠実な人柄が皆から愛され敬われてきたからこそ、今日にまで根強く語り継がれている。 そう思えるのです・・。