日本で最も高い山、日本のシンボルともされ海外からも知り慕われる富士山。
その富士山の五合目まで上がったのが中学校の修学旅行でしたから、既に50年から昔の話。 登攀道路を観光バスで往路する中、車窓に広がる雲海に驚いたことを今でも憶えています・・。
その10年後位に勤め先の社員旅行でもう一度5合目まで上がりました。60年余りの人生で2度だけ富士山に行ったことになります。 後は新幹線から見上げ飛行機から見晴らす山景を何度か・・。
ともあれ、この雄大な山が私達にもたらす感動は他に代え難いものがあります。新しき季節に咲き誇り舞い散る桜の花とともに “ハレ” のイメージをまといながら この国の象徴たり得るのでしょう。
朝霧高原(あさぎりこうげん)は富士山の西方、山梨県との県境にも接する静岡県富士宮市にある高原地帯です。ホルスタインの姿が牧歌を呼ぶ酪農牧場を主体としながらも、各種キャンプ場、休暇村、パラグライダーエリア、ゴルフ場などを擁する一大自然公園として親しまれています。
標高700~1,000mに位置し、総面積 約10万平方メートルともされる概要は富士箱根伊豆国立公園の一角を担い、その全域で富士の威容を仰ぐことができます。 まさに雄大な山とその息吹に抱かれ一体となれる自然のゆりかごとでもいえるでしょう。
5月から9月にかけては朝夕の気温差によって霧の発生が多く見られることが その名の由来となっているそうです。
まるで年々 募るような酷暑の夏にあって朝霧高原における気温も日中では30℃に達しますが、10月を迎える頃には20℃前半にまで下がるそうで、秋に向けての行楽予定に外せない候補地となるのではないでしょうか。
無限の開放感と爽快の風に溢れた富士外縁の避暑地ですが、古に目を移してみると様々に興味深い歴史が根付いていることに気付きます。
朝霧高原自体に注目するならば、この高原が酪農地として整備されていったのは昭和の20年代終盤から30年代にかけて。戦後の復興に寄せて食料供給増産の気運と熱意による賜物です。 それ以前は近隣郷村共用の入会地(いりあいち・薪や草の採取地)でしたが、その広大さから戦時中には戦車の演習場として軍の徴用をも受けていたそうです。
さらに往古に目を向けてみると、この富士宮市周辺は歴史的な大戦こそ行われてはいないものの、周知の通り北には甲斐国の武田氏、東には北条氏、西には三河国の松平(徳川)氏。そして地元 “海道一の弓取り” と謳われた今川義元と、戦国時代の名だたる巨星たちが その覇権を競った中心地ともいえる場所でした。
また鎌倉時代を打ち立てた源頼朝が鷹狩りを行い “曽我兄弟の仇討ち” の伝承を生み出した場所でもあったのです。
都からは遠く離れた遠地ではありましたが、西の京から東の江戸に政治の中心が移るまで、この地は歴史のうねりに大きな影響を与え続けた動乱の大地でもあったのでしょう。
その懐に心火を抱きながら富士の山は人々の動静をじっと見つめ続けてきたに違いありません・・。
戦国の世を痛烈な勢いで駆け抜けた尾張国の織田信長もそうした武将の一人でした。 生涯の難敵であった甲斐武田氏に翻弄されながらも、天正3年 長篠の戦いにおいて武田軍に決定的な戦果を出し、ついには後の甲州征伐において完全なる勝利を収めます。
長年の宿敵を討ち果たした信長は安土への凱旋の途上、富士の山見物を思い立ち 盟友であった徳川家康に所望(天正10年4月)。 願いに応じた家康は “富士の根かた かみのヶ原井手野”(後の朝霧高原と思しき原)にて、暫しの遊覧の場所を設け信長一行を歓待したといいます。
広大な高原で自在に馬を走らせる部下を横目に、富士を眺める信長はまさに宿願を叶えた至福のひとときであったでしょう。白雪を冠し天を突く山の頂に自らの栄光を重ねていたのかもしれません。
しかし その僅か2ヶ月後、彼の想いは数奇な運命の転変により再びこの地に縁を伝えられるところとなるのです・・。
天正10年6月2日早朝、京・本能寺に滞在していた信長は家臣・明智光秀の謀反襲撃によって横死を遂げました。(本能寺の変)
度重なる試練をはねのけ破竹の勢いで天下に台頭し、全てを手中に収める寸前の急逝は世に大きな動揺をもたらすとともに、権勢の大転換点のきっかけともなったのです。
盟主を失った織田家は、以降その趨勢を衰えさせてゆくこととなりますが、本能寺の変において信長本人の遺骸が見つからなかったことから様々な憶測が流れました。今持って彼の首級はおろか近侍した者たちの消息さえ詳らかでありません。
ところが、この富士宮市にある法華宗本山「西山本門寺」には “信長公首塚” という歴跡が残されており、脈々として信長の供養を奉じているのです。
6月2日の争乱の最中、自刃して果てた信長の首級を隠し持ち出したのは “原宗安” という配下であったとされています。 この原宗安の子こそ西山本門寺の18代貫主を務めた “日順上人” でありました。同時期(ほぼ同日)本能寺に滞在していた同門の僧 “日海(本因坊算砂)(信長と知己)” の伝手をもって混乱の京を脱出。
山野を掻い潜って駿河の地まで至り、子が治める西山本門寺境内の一角に密かに主の亡骸を葬ったのだそうです・・。 その時首塚の傍らに柊の苗を植えて菩提を弔ったと伝えられ、今もその柊は大樹の影を湛えながらそびえ続けています・・。
その経緯の多くが不明ゆえに数多の推測を呼び、またその類縁を唱える地も多く、西山本門寺に残る伝承もそれらのひとつとも言えるのですが、織田信長と本門寺宗主とのつながりは確かでありその裏付けの一端を担っています。 そして首級を葬ったときに植えられたという柊の年代測定の結果も450年前後と、歴史的な整合を果たしています・・。
尾張、美濃、安土、そして京と、未来のみを見て走り続けた信長が何処かひとつ所の郷愁にとらわれることはありませんでしたが、夢の頂点を見晴らした富士の裾野に葬られたことは・・。事実であるとすれば冥福といえるのかもしれません・・。
牧歌の声に満ちて爽快の風にそよぐ現在の朝霧高原とその周辺地。 数百年の古に溢れたもののふ達の生き様を胸の片隅に置きながら訪ねてみるのもまた一興ではないでしょうか・・。








