2日辺りからテレビなどで何度も言及されていますのでご承知の方も多いと思いますが、2024年の元旦16時10分、石川県北部を中心に発生した大型地震 “能登半島地震” から2年が経ちます。
内陸地殻型地震であるにもかかわらず津波の発生まで及ぼした この震災は、災害関連死も含め死者・行方不明者約700人を数える大災害となり2024年の幕開けに暗い影を落としました。
あまつさえ、被災者の暮らしやライフラインも立ち上がらぬ9月に畳み掛けるような豪雨災害に見舞われ、奥能登の社会基盤は耐え難いほどの打撃を被りました。
2年の月日が経ち、輪島市をはじめとした各地の暮らしもようやく落ち着きを取り戻しつつありますが、未だ生活再建の目処さえつかぬ人も数多く、能登に安寧と躍進の光が戻るまでには まだしばらくの時間が必要なようです・・。
改めてお見舞いと応援の意を表しますとともに、本日は今から約400年前に起こった石川県(加賀国ですが)の一大事に活躍された人のお話をお届けしたいと思います。
・・と、その前に、宜しければご一考いただければ幸いです。
「Yahooネット募金」能登地震復興支援
(PayPayなど使用可能)
「HEARTiN」能登半島地震の復興支援
(クリック募金 支出負担なし)
それが起こったのは江戸時代も軌道に乗り三代将軍家光の治世となった頃のこと。
寛永八年(1631年) 4月14日、城下の河原町(現在の金沢市幸町付近)の町家から突如として上がった火の手は、その日吹いていた強い南風に煽られまたたく間に町を北上。やがて金沢城にまで累を及ぼします。
二の丸が燃え上ると そこから本丸、三の丸へと燃え広がり、ついには天守を含む城内のほとんどの建物が灰燼に帰することとなったのです。
後に “寛永金沢大火” と呼ばれるこの火事は、城郭の大半と金沢の町家1,000軒以上を失う大災害となり、加賀藩に壊滅的な打撃を与える事態となりました。
往古、金沢の町は城下町であることから限られた範囲に武家屋敷や町家が建て込んでおり、また寒冷期には強い乾燥風が吹くため大火に見舞われることも少なくありませんでした。
しかし、今回ばかりは象徴たる天守まで失われ、加賀百万石の行く末さえ左右されかねない一大事となってしまったのです。
直ちに始められるべき復興の手立てですが、そもそも何故これほどまでの大火に至ってしまったのか?
それは火勢を止めるための水利の欠如でした。 金沢城は高台に建つため井戸はあっても水量は少なく、大火の際の消火になど到底間に合うものではなかったのです。
加賀藩二代藩主(前田家三代)前田利常は、自ら呆けを演じるなど知略をもって未だ不安定な江戸初期を切り抜けた頭脳派の君主。家康からも特に警戒されるほどの合理的実践の人でした。
根本的な改善なくして加賀の復興ならずと、その実行に必要な人材を求めたのは当然の流れだったのかもしれません。
とはいえ、良質な水利の確保など ある意味先代の頃から分かっていたこと。 出来なかった、その方法さえ分からなかったからこその今次の有様なのです。 適任者などそうそう見つかるはずもありません。
藩臣下をはじめ あらゆる伝手を辿り水利と工事に長けた者を探し続け、ようやくこの者ならばと白羽の矢が立ったのが “板屋兵四郎(いたやひょうしろう・下村兵四郎とも)” という人物。 何と金沢の目と鼻の先 小松郷に居たではありませんか。
能登の町人の出自ともいわれながら小代官を務めたこともある器量持ち。 和算・算盤に秀で、測量の技術をも修めた優れ者。以前にはその技術をもって揚浜式塩田の整備や “白米千枚田” の用水路設計、さらに金山開発にまで携わったとされています。
これだけの人物が今は役職を辞し一介の町人として慎ましやかに暮らしているとのこと。何ゆえ今まで重用されていなかったのか・・。
早速、使いの者が兵四郎のもとを遣わされ藩主直々の依頼を伝えたのだそうです。
しかし兵四郎は この依頼を断りました。 それまでの不遇を恨んでではなく、依頼の内容があまりにも実現困難なものだからでした。
城下町全般への用水路整備はいうに及ばず、谷(濠)を渡って高地へ揚げなければならない城への通水は極めて難しいものでした。 さらにそれを通水管(水道橋)を用いず地面下を通しての計画※は、誰が考えても不可能に近い要求に思えたのです。(※軍事防衛的理由から)
それでも他に有用な人材は無し、再三に渡る藩からの依頼についに兵四郎もこの難工事を請け負ったのでした・・。
一度 請け負ったからには何としてもやり遂げる。持てる知識と技能の全てを賭けて金沢の町に確固たる水路を築き上げる。 兵四郎はそういった気概に満ちた人だったようです。
請け負ったその日から兵四郎は地形の把握と測量に着手。時置かずして図面の作成に取り掛かります。 田畑に水路を引くのとは違い軍事的要求もあれば、目立たず、容易に破壊されず、恒久的に使えるものでなくてはならず。 さらにそれを短期間で。
考えれば考えるほどの難工事、されど難しければ難しいほど それを成し遂げたときの喜びを思ってやり甲斐の支えとしたのです。
兵四郎にとって最早この依頼は、藩命を超えて天命に等しきものとなっていたのかもしれません・・。
兵四郎の測量技術は現代的視点から見てもかなり精度の高いものだったといわれます。 現在の尺度でいうなら10メートル進んで5センチ下がるという、極めて緩やかで正確な勾配精度(約200分の1)を具現化していました。
寛永九年、周辺の地形を心に刻みつけた兵四郎は、犀川に沿って山に分け入ります。 一 町、二町 三町・・十町、二十町、一里・・。一歩一歩を踏みしめるかのごとく静かに歩を数えます。
最早、兵四郎の胸中にあっては この難工事の完成図が見事に浮き彫りにされていたのでしょうか。
迷う事あらず。あとはただ実行あるのみ・・。
二里余も歩んだとき・・。兵四郎の足は船が錨を下ろしたかのようにピタリと止まりました。 鬱蒼と生い茂る両岸の樹木がそそり立つ断崖の土肌を隠した場所・・。
「間違いない、ここが水を引く起点だ・・・」
兵四郎の決断と号令一下、猛然として始められる突貫工事。
集められた人夫は数千人、これをいくつかの組に分け、日に四度の食事を与えて昼夜兼行。寝る間も惜しんで働く兵四郎の指揮のもとに、前代未聞の進捗で工事は進められたのです。
水の取り入れ口となった上辰己の村から城内二ノ丸まで、全水路約三里(11キロメートル)、その半分近くが鉄のような岩磐を穿かなければならないという予想をはるかに上回る難工事でしたが、彼らはこれを僅か一年足らずという短期間で見事に完遂しました。
さらに最大の難関とされた谷(濠) を越えて城内に水を渡す地下水路には、「伏越の理(ふせこしのことわり)」という日本初とも言われる大規模な「逆サイフォン構造」を導入して これを実現したのです。
城内の井戸から吹き出る犀川の清水とその勢いに、利常はじめ臣下たちは只々目を見張るばかり。 そればかりか工事に参加した人夫たち各責任者たちにしてから、完成し溢れる水を目にして初めて兵四郎の言を信じたほどの偉業であったのです。
あの人の言った通りだったと・・。
『辰己用水』とよばれるこの用水路は その後も整備と拡張がなされ、落成から400年経った現代でも現役の水路として機能しています。 金沢城内の引水、兼六園の曲水、金沢市街の防火用水、犀川流域の農業用水など多くの場所で活用されています。
2019年には その一部が “国の史跡” にも指定されました。
兵四郎は城の軍事機密に関わったこと、兵四郎を祭神として祀る “板屋神社” が金沢市内にあることなどから、工事後に謀殺されたという話が長年まことしやかに伝えられましたが、これを裏付ける資料などはなく。
一方で、その晩年まで藩からの養老費によって安楽に暮らしたという話も残されているそうです・・。
400年前の事情と現代の状況を同列に語ることはできず、それを打開するための経済や技術も全く異なりますが、安寧の暮らしを望む人の心、困難な状態から立ち上がろうとする情熱に違いはありません。
地元の人々の想いと国民皆の心が一つとなって、一日も早い能登の復興・再興が果たされることを願ってやみません。








