以前(といっても数年前になりますが・・)滋賀県長浜市にある「慶雲館」という名勝を記事に取り上げたことを ご記憶の方はおられるでしょうか?
明治20年2月に行われた明治天皇の京都行幸啓(京都などにご旅行されること)で、帰路 琵琶湖を船で渡って長浜に上陸、鉄道に乗り換え東京にお戻りになられる手筈となりました。(当時はまだ東海道本線が全線開通していなかったため)
急遽決まったこの慶事に際して、長浜出身の実業家 “浅見又蔵”氏が私財を投じ地元行政を巻き込んで、(突貫工事で)設立した天皇の御休息処が「長浜 慶雲館」です。
3ヶ月余の工事期間、現在でいうなら億単位の費用を掛けて立ち上げた庭園と御休息処でしたが・・。
(続きはコチラで 〈三つの時のキーワードから見る長浜の小史 -(後)〉)
長浜の人々の想いが詰まった この「慶雲館」で、1月10日から3月10日(火)まで『第75回長浜盆梅展』が開催されています。
「盆梅(ぼんばい)」・・って何? ご興味のない方には少し縁の薄い言葉かもしれません。 知ったように書いていますが、私も写真を見てから「あぁ、あれを盆梅と言うのか」という感じでした。(物不知ですね・・)
御覧のように、要するところ “梅の盆栽” です。
言い換えれば盆栽の中の一カテゴリーともいえるでしょうか。
盆栽についても過去に一度記事で取り上げたことがあるのですが、その時も自分の中に持っていた陳腐な認識と異なり、伝統と革新が融合した現代の盆栽スタイルや、国際的に広がる愛好者の姿に多くを学んだものでした。
そして今回、「盆梅」を改めて見た感想は・・。
何というか・・ “凄い” という言葉が先ず頭をよぎりますね。
盆栽が持つ伝統的な美や、そこから放たれる渋み、作家(盆栽家・生育師)の思い描く世界を具現化する芸術的表現。
それらを「盆梅」も同様に備えながら、その存在感の大きさ麗しさに圧倒されます。
無論、盆栽の中にも大型のものはあるのですが「盆梅」の存在感はまた別物のように思えます。
盆栽が基本的に “自然景観を限られた植木鉢上の空間に再現” することを目指しているのに対し、「盆梅」は “自然再現を標榜しながらも自らの本質と美を表現” していることの違いでしょうか・・。
(あ、門外漢の考えですから気安く読み流してくださいね (^_^;)
ともかく盆栽を貴重で独創的な古書に例えるなら、「盆栽」は絵巻物のような訴求力を持っています。 それでいて絢爛な艶姿のものから、浜の老松を思わせるような滋味深いものまであるのですから・・。 やはり盆栽の世界は奥深いのでしょう・・。
現在の日本で春を彩る花といえば先ずは “桜” であり花見などもよく催されますが、古の時代にあっては “梅” の方が主流であった・・。 というような話を聞かれたことのある方も多いかと思います。
これは奈良時代の国情にも一因があり、催行されていた遣唐使によって大陸から日本に梅が持ち込まれたことに端を発しているのだとか。
先進・模範でもあった大陸の文化。その一端を彩る梅を愛好することは当時の貴族たちにとってステータスともいえる趣味にまで昇華していたのです。
平安時代に至り、桜を愛した嵯峨天皇によって “日本初の花見” が開かれ、さらに遣唐使が廃止されると原生種であった山桜への注目が高まり、春の花の主役は梅から桜へと移ろっていきますが、それでも梅への愛好が絶えたわけではありません。
鉢に木を植えて景観を整える “盆景(盆栽の祖のようなもの)” に梅を植えて楽しむ者も依然として多く、言わば(今日でいう)盆栽と盆梅は同時期に発祥・・。
否、愛されるという意味では咲く季節の並びのごとく、梅の方が些か先だったとさえいえるのかもしれませんね。
盆梅を扱った話として知られたものに鎌倉時代・世阿弥の作ともいわれる “能” の一曲に “鉢木(はちのき)” という演目があります・・。
「鉢木」
深々と雪が降り積もる とある夜のこと
佐野(北関東の一所)の貧しいあばら家に一人の男が住んでいた
吹き荒ぶ風に紛れて戸を叩く音がするので開けてみると
そこには粗末な法衣に身を包んだ旅の僧が立っており一夜の宿をと乞う
男は旅の僧を迎え入れ なけなしの飯を振る舞い
囲炉裏の暖を馳走するも やがて薪も燃え尽き火勢が衰える
されど あまりに貧しき身ゆえ継ぎ足す薪もない・・
男は意を決して あばら家の隅から見事な出来の松竹梅の盆景を取り出してくると 僧の目の前でそれを折りさばき囲炉裏へと焚べた
男は名を佐野源左衛門といった
かつて当地を統べていた領主であったが身内の裏切りにあい
全てを失い凋落した身であることを僧に語った
盆景も栄華なりし頃の自慢の宝であったが 今となっては無為なるもの
せめて仏に仕える人の足しにでもなればこれらも本望であろうと・・
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翌朝 僧を見送りまた日々の慎ましい暮らしに戻った源左衛門であったが その数ヶ月後 突如として鎌倉より召し寄せがかかる
すわ 戦の助けかと破れ鎧を着付け 急ぎ鎌倉へ馳せ参じてみると・・
直の謁見を賜り そこにいたのは鎌倉五代執権 北条時頼
そしてその顔は あの日に泊めもてなした旅の僧であった
その心意気に感服した時頼によって 源左衛門はかつての領地を回復し さらに松竹梅になぞった三つの領地をも与えられることとなった
お話はお話としても盆梅また上質なる盆栽は、往古より価値高く珍重されたものであったかが伝わる一遍ですね。
時代が下がって江戸時代に至っては一般庶民の間でも盆栽趣味が普及し、その中でも盆梅に打ち込む通の人も増えました。 特に梅は早春に可憐な花を咲かせるため、季節の風物詩としても愛されました。
着実に根を広げた盆梅文化は各地で展示会を催すほどにまでなりましたが、とりわけ長浜市の「長浜盆梅展」は、歴史・規模ともに日本一とされ、現在の盆梅文化を象徴する存在となったのです。
そもそも、今回ご紹介する大型の「盆梅展」という形式を確立したのは、滋賀県長浜市の “高山七蔵(たかやましちぞう)”氏による功績ともいえましょう。
大正時代、長浜市の北部にある高山村の篤農家であった高山氏は、趣味で山や谷から梅の古木を掘り起こし、鉢植えにして育てることに情熱を注ぎました。
それまでにはなかった高さ3メートルを超える巨木や樹齢400年の古木を鉢植えにするという、独自の技術とスタイルを40余年の歳月をかけて築き上げたのです。
戦後の昭和26年(1951年)、66歳になった高山氏は「より多くの人に喜んでもらいたい」と、自らが丹精込めて育てた約40鉢の盆梅すべてを長浜市に寄贈しました。
これを受け翌昭和27年(1952年)、明治天皇の行在所でもあった迎賓館「慶雲館」を会場として、第1回「長浜盆梅展」が開催に至ったのです。
「盆梅」が “特に” とされるのは、単にその大きさなど外観のみによるところではありません。
一般的な盆栽に比べて盆梅は維持管理に非常に多くの手間を必要とし、また剪定などのタイミングが終花直後のみなど、保守調整が極めてシビアなのだそうです。 下手な手の入れ方を施すと取り返しのつかないことになってしまうのだとか。
また、夏季などには日に数回の水やり、肥料の調整などが欠かせず、生育家は旅行にも行けない付きっ切りの世話が必要になるともいわれています。
それだけに、仕上げられ、見事な景観を披露する盆梅。それらが一堂に介した「長浜盆梅展」はその集大成であり象徴でもあるのです。
明治20年に明治天皇の御休息処として建てられた歴史的建造物。初代総理大臣・伊藤博文の命名による「慶雲館」。 盆梅のお披露目所としてこれ以上相応しい場所はないでしょう。
千年に結ぶ歴史と、これに想いを込めた生育家の技の結晶をその目でお確かめください。










