何らかの理由があるのか・・。それとも私自身の単なる思い込みなのかは不明ですが、以前から不思議に思っていた小さな疑問がありました。
それは中学~高校などで美術などを担当されている先生が、野球部の監督や顧問などを兼任されているケースが割と多いような気がするのです。
近年の教職制度の中では部活動の顧問数に事欠く場合も少なくないため、教務と部の顧問兼任というのは分かるのですが、芸術とスポーツという どちらかというと背反するようなイメージの分野でこれを両刀使い分けられ納められている能力に感服するのです。
試しにAI にこれを問うてみたところ以下の答えが答案のひとつとして提示されました。
[ 美術の先生は創造性や指導力を持っているため、スポーツの指導にも適応しやすいです。特に、チームワークやコミュニケーション能力が求められる野球部の指導において、これらのスキルが役立ちます。・・](AI 回答)
まぁAI による回答なのでどこまで正確かは不明ですが、持ち前の創造性がスポーツにも適用できる可能性は確かにあるのかもしれませんね・・。
今から約100年前(1921年(大正10年))栃木県宇都宮市の高校(当時・旧制中学)にもそうした先生がひとり存在しました。 何故か彼は自らのことを “へっぽこ先生” と称していたそうです・・。
名は 川上澄生(かわかみ すみお)元々は神奈川県横浜市の出身で後に東京青山で育ちました。
異国文化漂う横浜の気風の中で生を受けた澄生でしたが、そうした風土は青山での暮らしでも同様であったのではないでしょうか。
古くは武家屋敷や寺社が建ち並ぶ閑静な住宅地ながら、海外から流入した芸術や文物にも溢れた街でもありました。 澄生は幼い頃から興味と創造の傍らに居たのです。
彼の人生に大きな影響を与えたのは風土だけではありません。父・英一郎は横浜にあって新聞社の主筆を務めた人物でもあり、その関わりで澄生も早い時期から文筆の世界に染まっていきました。
高等科の生徒であったときに発表した詩は、かの北原白秋にまで賞賛されたといいます・・。
只、こうした文人・芸術家肌の性質故でしょうか。社会を巧みに泳ぎ渡り目に見える成功を手にする情熱には少々 蛋白であったようです。
当時としては一端のインテリ階級であったはずの高等科卒業をもってしても定職に就かず、放蕩に近い生活を送っていました。
父の勧めで北米に渡り一年程を過ごしますが、ここでも有効な将来への道筋を見つけることができず帰国しています。
しかし、渡米中に得たたった一つの、そしてとても小さな光。
“美術に対する仄かな夢” が、彼のその後の人生に確かな日差しを与えることになろうとは、このときの澄生に知る由もなかったのかもしれません・・。
帰国後も定職に腰を据えることなく職を転々としていた澄生でしたが、大正10年(1921年)26歳になって大きな転機が訪れます。
栃木県宇都宮市の中学校教師への職が舞い込んだのでした。
もとより学業には相応の力量を修めていた澄生でしたし、渡米の経験がここで役に立ったのか英語科の教師として赴任が決まりました。
そしてさらに(これは憶測ですが・・)これも渡米中の見聞からか、野球部の顧問をも担うこととなったのです。
されど、栃木県の中枢とはいえ内陸の街、それも100年前の宇都宮。横浜や東京に比すれば環境の変化も大きかったでしょう。 しかし、そんな静かで朴訥とした勤めと暮らしに澄生は当初の予想を超えて馴染んだのでした。
赴任前に仰いだ高等科時代の恩師からの教え「生徒を可愛がっておやり・・」という言葉。
当時、温情は篤いながらも厳格で堅物な教師が多かった時代、恩師から送られた言葉に感銘を受けた澄生は、担当した生徒たちそれぞれの人格を尊重し対等な関係を築くべく腐心しました。 少し大げさに言うならば一人の友人という立場にも近かったのかもしれません・・。
そんな新任教師を生徒たちも慕い、・・挙げ句付けたあだ名が “ハリさん” だったそうで。
(あまり風貌に頓着ないのか、澄生の頭髪がハリネズミのように逆立っていたことから)
昼には英語教師、夕には野球部顧問と決して軽くない職務の日々でしたが、澄生はこの仕事に誠意をもって取り組み生徒たちとの時間を大切にしたのです。
英語の授業には工夫を凝らした教法を考案・導入し、野球部の指導には自らバットを持って臨んだといいます。 顧問着任の3年後には “第10回全国中等学校優勝野球大会(後の全国高校野球)” にまで進出する快挙となりました・・。
そして教師として赴任、ようやく腰の落ち着き処を得たことからでしょうか。この頃から澄生は予てよりの夢の実現に “版画” の手段をもって着手、翌年大正11年には早くも第4回日本創作版画協会展入選という花を咲かせていきます。
文筆の方面にも変わらず才能を振るい、その成果はやがて版画と文章で構成された “版画誌” や絵本となって結実していきます。
澄生の作品は版画技法の中でも “創作版画” と呼ばれるものでした。 版画はその歴史の長さから絵師・彫師・摺り師として分業が進められ、近世に至っては増刷の技法にばかり注力されましたが、創作版画はそれら全てを作家ひとりで行い、さらに増刷することを重視していません。
言うなれば本来の芸術的志向に沿うものであり極めて純度の高い創造作品であったのです。
さらに澄生が求め表したモチーフは難解な題材などではなく、人々の居住まいや物珍しげな当時の世相であり、見る者・読む者にとって非常に親しみやすく、また詩情に満ち溢れたものでした。 難しい解説や能書きなど必要としない、人の傍らにある芸術であったのです。
めきめきと頭角を現した澄生の作品は やがて広く世に知られるところとなり、大正15年(1926年)に発表した「初夏の風(はつなつのかぜ)」は彼の代表作となると同時に、この作品に触れた “棟方志功” が版画家の道を歩むことを決意させたとも伝わります・・。
芸術家といえど一介の人間、生活の糧は必要です。そのためには制作した作品が売れなければなりません。 高名な先生方ならともかく無名時代の芸術家は皆そのために苦労します。
創作時間の捻出に苦労したとはいえ教員・部の顧問という定職を持ちながらの芸術家・創作版画家という立場は、澄生にとって僥倖であったと思われます。
しかし、それとともに澄生自身が経済的な充足や世間的な栄達を欲しない淡白な性分であったことが伺えます。 放蕩時代を経て現状に続く人生で澄生は、社会的成功よりも創造性の充足と人との繋がりを優先させた様子。 そうした朴訥とした自分を揶揄して「へっぽこ先生」と自称していたようです。
まさに彼の人となりと言えるでしょうかね・・。
戦争がはじまり軍国主義に染まっていく世相を嫌った澄生は一時 妻の親戚を頼って北海道へと疎開しますが、戦後にはまた宇都宮に戻り教職へと復帰しています。 澄生にとって宇都宮はもはや第二の故郷となっていたのでしょう。
宇都宮市に隣接する栃木県鹿沼市には川上澄生の教え子であり、師に心酔し生涯にわたって澄生の作品を蒐集した長谷川勝三郎氏の寄贈によって建てられた「鹿沼市立川上澄生美術館」があります。
川上澄生の遺した数百数千の作品に触れてみてください。人の傍らにあり詩情にいざなう彼の版画を前にするとき、私達が子供の頃に見た夏の暑さと木陰の涼やかさのような懐かしさに出会えるかもしれません・・。







