2年前、2023年の夏に本稿と似たような秋田県の祭の記事を書きました。 当時、8月催行の祭を7月中盤に投稿する予定だったのが、折からの豪雨により秋田県を中心とした東北各地に大きな洪水災害が発生、人的被害にまで及んだため記事掲載を振替延期。祭事直前の8月頭まで持ち越したことを憶えています。
現在(4月末・記事作成時)において梅雨前線はまだ少し先のことですが、30~40年ほど前とは異なり、近年の気象状況は予断を許さない場面が少なくありません。 突然の雷害に見舞われたり、昔なら秋の風物でもあった台風が初夏に発生したりと、意表を突く、また急激に発達して大きな災害へと結びつくケースが多いように思えます。
自然現象なだけにそれらを避ける手立てがないのは往古も現代も変わりがありませんが、日々の対策や備え、有事への意識だけは持ち続けたいものです。
その秋田県の祭 ” 横手の送り盆まつり / 屋形舟繰り出し” は、屋形舟型の山車を蛇の崎橋上で向かい合わせに対峙、勢いよくぶつけ合うという誠に勇猛果敢な祭事でした。
こうした山車のぶつけ合いという形は、ある意味 “祭の華” であり ひとつの形式なのかもしれません。 一つ間違えば命に関わることもしばしば、時に喧嘩さえ交えて繰り広げられる祭のクライマックスは、”危険・暴力的” という現代的判断はさておき、生きることへの発露であり神への奉斎でもあるのです・・。
この “屋形舟繰り出し” に輪をかけてパワフル。ぶつけ合うというより相手を “壊しにかかってる?” ようにまで見え、巷に “ギロチン祭” とまで呼ばれる祭が富山県にあります。
祭の名は『津沢夜高あんどん祭(つざわよたかあんどんまつり)』。 富山県の西部、小矢部市(おやべし)の津沢地区に受け継がれる非常に勇ましい祭事。
元々 初夏の農閑期における農民の余興をおこりとしているため、創始の年代は不明ながら、少なくとも400〜500年前の田祭りにつながるのではないかともいわれています。
旧暦なら5月、田植えも終わりほっと一息つく頃に行われる祭事であるだけに、そこには田楽としての気分転換と高揚が根底に流れています。 同時に植え終わった苗の順調な生育と豊作への願いが込められていることでしょう。
時経って祭の嵩が増し意気も上がると、その内容はより華やかに、そしてより雄々しいものに変化していきます・・。
現在では6月の第1木曜日に子供たちによる前夜祭を興し、続く金曜(1日目)・土曜日(2日目)に本祭が行われます。
夕闇もそぞろに迫る頃、次々と町に現れる山車は 最大全幅3m・全長12mにもなり、そこに載る巨大な行燈を含めて全高は7mにも達します。 10トントラックを上下に2台積み重ねた程の大きさ・威容はまさに圧巻。煌々と照り渡る行燈の山車「夜高行燈」のお披露目です。
市内各地区から繰り出される夜高行燈は大中小合わせて20基以上。絢爛壮麗な行燈の灯りを競いながら練り歩く様に市民・来訪客とも既に興奮状態。
そしてとっぷり日の暮れた午後9時頃から始まるのが、この祭のクライマックスであり見どころでもある “喧嘩夜高行燈”。 夜高行燈の中でも特に大型の山車7基が、”津沢あんどんふれあい会館” 広場前の道路で繰り広げられる “夜高行燈のぶつけ合い” です。
10m程離れて対峙した夜高行燈が、笛と掛け声を合図に相手の山車に載せた行燈目掛けて突進。 5トンにも達する山車が全力でぶつかり合う様は豪壮そのもの・・を通り越して危険とさえ思える様相。
別名 “喧嘩” とも呼ばれるこのぶつけ合い。 山車の曳き手である若衆たちは満身の気を込めて突入しますが、寸でのところで相手の車体や曳き手を交わさなければなりません。 ほんの少しの手違いが重大な事故や怪我を招きかねない一瞬なのです。
狙うは相手山車の前方に座る行燈。山車同士がぶつかり合った後も舳先を何度も打ち下ろし完全破壊を目指します。おそらくは この様子をして “ギロチン” とも例えられるのでしょう。
あまりの興奮状態ゆえに、夜高行燈ならぬ曳き手若衆同士の喧嘩が始まる場合もあります。およそ短時間で仲裁されて行燈喧嘩の仕切り直しへ戻されますが、これも祭の華というものでしょうか・・。
とりも直さず危険を伴うため一般参加は認められていません。 祭はその地元の衆が主だってするもの、観光客は見て楽しむにとどめておくが吉ですね。
祭というものは極限られた一部の箇所だけで催されるものも少なくありませんが、一定の地方区に広がって類似の祭事が複数催されていることも多々見受けられます。
実のところ、この『津沢夜高あんどん祭』も富山県砺波(となみ)地方で行われる “行燈祭” のひとつであり、南砺市福野の「福野夜高祭」、庄川町の「庄川夜高行燈」、出町の「となみ夜高まつり」など、地方をあげて行われる田祭りであり “やすんごと(田休みの楽しみ)” なのです。
ことに「福野夜高祭」の由緒には、往古に被った大災害の復興に伊勢神宮からの分霊勧請を図り、その使者の夜行を行燈を持って迎えに行った旨が記されています。 こういった故事が祭の発祥となり各村に伝わっていったであろうことは想像に難くありません。
発祥や由緒は別にして、上述 秋田県の “屋形舟繰り出し” の形態に似通った部分があるのも、相互に何かしらの影響を与え合ったのかもしれませんね・・。
祭というものには その地域で暮らす人々の喜びや願い、ときに猛々しいまでの怒気まで伴って “生” への祈りが込められているのです。
そしてそれらは、一つの村落で完結することなく より広い地方に連なり影響を与え合い、ひいては人の世の脈拍のごとく息づいているのでしょう。