広島県の東に位置する福山市、岡山県に境を接するほど県域の端にありながら広島市に次ぐ人口を有する街であり、また中国地方2番目の中核都市にも指定されています。
背は山地、眼前は瀬戸の海、その間を街道が通り古く山陽をして機内と西南をつなぐ要衝の地であり、経済の中心地でもありました。
穏やかな港を持ち、江戸時代には大阪や江戸との海運を担う交易地としても発展したのです。
時代の変化とともに住宅地としての需要に推移しましたが、それでも上記のような歴史的経緯から福山市には重要な行政施設が置かれ、また世界的に知られる造船・重工業所が育っています。
反して、鞆の浦をはじめ福山城、福禅寺・対潮楼など、歴史の面影を今に伝える史跡が多く残っており、端々にみる佇まいには今は昔の風雅を留めています。
この福山と、そして今はこちらも観光地として知られた尾道の間に今津という名の宿場町がありました。 現在の福山市今津町・松永町にあたるでしょうか。
その今津が さらに古く春部(かすかべ)の郷と呼ばれていたころ、この地一帯を治める大庄屋が居たそうです。
大庄屋といえ無駄に威張り散らすこともなく、過重な納米の取り立てもしなかったので、百姓たちからも好かれていました。
また信心深い性格であったため 田には丁寧に田主神を祀り、毎年稲刈り時には初穂を供えて感謝を捧げました。 その時には祭を催し馳走に酒も皆に振舞ったので、喜び賑わう声で春部は彩られたといいます・・。
ある年のこと、田植えを済ませて二、三日経った頃から強い雨が降り出し・・・。
程よい雨ならともかく、簔をかけても外を歩けぬ程の大雨が数日に渡って降り続き、ついに植えたばかりの苗は跡形もなく流されてしもうたと・・。
残念だが嘆いてばかりもいられぬ。 ようやく雨も小止みになると大庄屋は百姓たちを集めて励まし、もう一度田植えをさせたと。
ところが その田植えの仕直しが終わったと思うたら、またも大雨が降り出し今度もみな駄目になってしもうた。
いくら何でもと思うたが、苗を植え米を作らにゃ来年の食い扶持に困る。 大庄屋は自らも泥に足入れ、百姓たちに もう一度田植えをさせたと。
ところがところが、またしても大雨が・・。
田植えを四度も繰り返せば植える苗も無うなってしまう。
時も経てば田植えの時期も逸してしまう・・。
すっかり腹をたてた大庄屋は
「これほど信心しているのに 田主神はご利益をくれない!」
と言うて、 田主神を大水の中へ放り込み流してしもうた。
そうして大庄屋は
「どうか陽の光をお与えください!」
と、お天道さまに向かって信心するようになったと。
すると次の年、今度は反対に雨がさっぱり降らず田植えさえ満足にできん有り様となった。
さらに その翌年には田植えはできたが その後日照り続きで、伸びはじめた稲もみな枯れてしもうた。
繰り返す災難に百姓たちは皆痩せ細り、ひもじい腹を抱え嘆いた。
大庄屋も途方に暮れ、もはや神に祈る元気さえ失うてしもうたと。
そんなある日の夜、大庄屋の夢枕に歳神が立ってこう告げた。
「続いた雨の障りは また自然の御意でもある・・」
「今の日照り続きは 思い無きままに打ち捨てられた田主神の祟りである」
「この境遇を治したくば男石(陽石)を田に打ち立てて もう一度 田主神を迎え、女石(陰石)を畔に置いて水を張るが良い・・」
大庄屋は目が覚めると、これが最後の望みと百姓たちを今一度集めお告げのとおりにした。
すると翌年からは程よい空模様が戻り、稲穂もすくすくと育った。
皆は感謝し、大庄屋は初穂を田主神とする男石に供え、それを次の年の最初の種とすることにした。
さすれば、それからというもの春部の土地では毎年 豊作に恵まれるようになったと。
大庄屋の祀る男石と女石の話はじきに知れ渡るところとなり、多くの民百姓たちの信仰を集めて、その祭も年を追うごとに盛大となったという。
男石(陽石)が田の神、女石(陰石)が水の神とされ、この水神に捧げた水が石穴から絶えなければ、稲の水に困ることはないといわれている・・。
自然災害や天候不順に農業が左右されるのは、その技術が進歩した現代でさえ避け難いもの。 ましてや古来の農作はその多くの部分が天候任せ・運任せであり、後は神頼みでありました。
日本人の大部分が農民であった時代、大雨や干ばつは文字どおり死活問題でもあったのです。
今回のお話の中で陰陽石は豊作を招く神の依代として描かれていますが、その意と形態からくる一般的な印象、すなわち男女の交合をして懐妊願いや子孫繁栄、縁結びなどのご利益に名高いことはご周知のとおりです。
さらに道祖神として祀られることも多いことから、元来、男女の象徴をして神通力を発揮し、子孫から農作まであらゆる未来への希望を生み出し守る御神体とされてきたのでしょう。
春部の陰陽石は地名も変わった福山市松永町の一角に鎮座する『陰陽石宮』の御神体として祀られていました。東方から陽石が、西方から陰石がのぞみ、時に水の中に隠れながらも 男女交合の姿を思わせるかのごとく佇んでいたそうです・・。
しかし、・・おそらくここ数ヶ月から一年ほどの間に「陰陽石宮」の社影はその姿を消してしまったように見えます。(Googleストリートビューにて確認したところ、石碑などの一片のみ遺っている?)
もしかすると何処かへ遷座したのかもしれませんが、現時点で詳細は不明です。(ご存知の方が居られればご一報いただければ嬉しいです。)
もはや陰陽石のお陰を必要としない時代となったのでしょうが、先のような民話を知った上では・・少し寂しく思えてしまいますね・・。