“ペトログリフ”(petroglyph)という言葉をご存知でしょうか? ギリシア語で “石” を表す “petro / πέτρα” と “彫刻” を表す “glyph / γλυπτική” からなる言葉で、その名のとおり岩などに刻まれ描かれた図形や文字の遺跡を指してこう呼びます。
因みに、似た言葉として “ペトログラフ”(Petrograph)というものがあり、概要としては近いものなのですが、こちらは岩に “染料などで絵が描かれていた” 場合を指して言うのだそうです。 一部には “ピクトグラフ(pictograph)” とも言われ、野牛?の岩絵で知られるフランス・ラスコーの洞窟画などが、その代表的なものでしょうか。
学術的にいうと これら両者はきっちり分類されるのですが、言葉が似ているためか 一般的には往々にして混用されているのが現状だそうです・・。 本日ご案内する記事も、現用にてはペトログラフとされていることが多いことをご承知ください。
話を戻して この “ペトログリフ”、ご想像に上るとおり古代における原始的文化の形跡・・のようにも思えますが、太平洋、オセアニア周辺諸島などを主に、200年ほど前まで刻まれていました。 また現在においても儀式的な用途などで更新されることもあるのだとか。
必ずしも原始時代の産物と限定されるわけではないのですね・・。
とはいえ、今に遺されたペトログリフには正確な年代も分からないほど古いものも多く、数千年から一万年という有史以前、途方もない時間を超えて古代の息吹を伝えてくれるもの。
世界中にその遺跡・痕跡は見られ、おぼろげながらも太古の人々の暮らしや想いを知ることのできるペトログリフは、考古学・歴史学そして文化人類学的な見地からも非常に重要な遺跡です。
そして日本にも、そのペトログリフは遺されています・・。
日本におけるペトログリフとしては、以前ご紹介した北海道・余市町の “フゴッペ洞窟” の壁面に刻まれたものや、岐阜県・恵那市の山林に点在するピラミッド型岩塊に遺るものなどが知られますが、本日は山口県下関市・彦島に伝わるペトログリフをご案内したいと思います。
彦島は下関市の最も南西にあたる地であり、JR山陽本線を介して九州小森江~門司へと繋ぐ、本州最西南端の地・・ともいえましょうか。
地名のごとく元々は小瀬戸で分かたれた “島” でしたが、昭和初期に一部が埋め立てられ架橋されて地続きの土地となりました。 東側瀬戸内方面には武蔵・小次郎で有名な巌流島(船島)を間近に望むのですが・・。
その巌流島を見晴らすのに丁度よい丘が陸側にあり、現在は “巌流島展望台” も設けられています。
杉田岳陵と呼ばれるこの丘の頂上付近で、1m四方程の奇異な岩が発見されたのは大正14年(1924年)のことだったそうで・・。
否、展望台もなく足跡も少ない時代とはいえ、地表に露出していたのであれば永い時の流れの中で、地元の民にはいくらか知られたものだったのかもしれません。 文明の光が射し込んで初めて公になったのが大正の終わりの年だったのでしょう・・。
注目を浴びたのは、発見された数体の岩の中で最も大きく平たい岩に、微かながらにも明確に、奇妙な図形や文字のようなものが確認できたからに他なりません。
楔形文字(くさびがたもじ・呼称としてシュメール文字などともされる)に近似した文字や、丸型・三角型の図形。そして人間と思しき人型の紋様などが掘られた岩は「杉田岩刻文字」と呼ばれ、当時の世相を賑わせました。
少なくとも1700年以上、さらなれば紀元前に優に届くと思われる岩体群は「彦島杉田遺跡」と名付けられました。 図形の刻まれた岩は彦島北部に鎮座する「彦島八幡宮」へと遷座され、”神霊石” として現在もその姿を見ることができます。
前述のとおり彦島は本州の一部でありながら、古来 小瀬戸で区切られ海で囲まれた陸の孤島ともいえる地勢でありました。
しかし同時に、瀬戸内側と大瀬戸側、九州方面を全て見渡せる場所でもあったため古の交易、また戦にあって極めて重要な拠点ともされていたのです。 陸地に間近ながらも天然の要害に護られた島は、これら人の営みが限られていた太古の時代から独特の風土を培ってきたのでしょうか。
平安時代の武人 “河野通次” は保元の乱にて敗し彦島に落ち延びた後、世の無常に感じ入り栄達欲心を捨てて、仲間とともに彦島開拓の祖となった人と伝えられますが・・。
その通次がある日漁に出たとき。 俄に暗雲立ち込める海原に一閃の光が射し通し、不思議に思った通次がそこに網を打つと一枚の鏡が引き上がりました。 鏡の背には八幡神の御影まであり、以来、通次はその鏡を一族と彦島の守り神・本尊として奉り、彦島八幡宮の由来に結びついているのです。
秋にはそれらの由緒に基づく “サイ上り神事” にその影を見ることができるでしょう・・。
彦島八幡宮は境内そのものが「宮の原遺跡」という遺跡群地域の中にあり、周辺地からは数多の石器や土器が出土しています。
境内には杉田遺跡から移されたペトログリフ岩の他にも、数多の岩が安置されています。 その多くは現在の三菱下関造船所の敷地内(杉田遺跡の近く)から出土したものですが、そこに刻まれる文字は解読不可能ながらも ここに紀元前太古の文字文明があったことを暗示しているのかもしれません。
また境内の岩の中には、かつて造船所のドックと巌流島の間を往来し、船の進水を妨げたといわれる “泳ぐ岩” なる大岩も鎮座ましまし、こちらも一見の価値を持つでしょう。
あまりにも古きものであるが故 その解明も覚束ず、大半を推測や想像で補うしかないペトログリフや太古文明の不思議とロマン。
ひと繋がりの歴史の中で何故失われてしまったのか? 何故一片の伝わるところもなく切れてしまったのか? 数千数万と離れた異国の文明と本当に繋がるところはあったのか?
あまつさえ祟りの口伝や岩の撮影時に起こる奇怪な現象など、オカルティックな噂まで手伝って、彦島は古代歴史ファンにとっての魅力溢れる聖域と言えるのかもしれませんね。
機会があれば ぜひその目でお確かめください・・。