生きること、協心結束こそ我らが矜持 – 鹿児島県

登山中に道に迷うなどして運悪く遭難の憂き目となったとき、つい不安や恐れの気持ちに “早く下山してしまおう” と思ってしまいがちですが、遭難時の鉄則は “上を目指す” ことといわれます。

言うに及ばず山というものは山頂側が面積が狭く裾野に向かって広がる形状にあり、当然、登山道も裾野方向に枝分かれしている(逆にいうと裾野側は沢山の登山口があり、山頂方向に絞られてゆく)ことから、闇雲に下に向かうと余計に迷ったり沢への滑落事故の可能性が高まる・・。

多少、不安でも上に上がった方が道が絞られ視界が開けるので、自分の位置や方向が把握しやすい。 ・・ということからいわれるのですが、これもまぁ状況次第、ケースバイケースで一概に “上へ” と言い切ることもできず、最も妥当な答えは “元来た道を憶えている地点までゆっくりと戻る” だそうです・・。

とはいえ、山道など何処も彼処も同じような風景、注意深く景色のポイントを押さえておかなければ元来た道を探るのも至難の業でしょうね。 いうなれば “遭難時の心配” より “遭難しないための心配と対策” が何よりも大事ということなのでしょう・・。

 

さて、普通の登山でも難しい遭難時の判断ですが・・。 人生という最も高く長い登山における緊急時、それも目前の危難、生死の瀬戸際の判断に、敢えて険しい山頂を目指すかのような賭けに出た人がいます。

それは この国の行く先さえ左右した一戦 “関ヶ原の戦い”。 大阪方西軍と徳川方東軍、まさに日本を二分して繰り広げられたこの合戦は、戦前・戦中 無数の人々に過大な選択を強いることとなりました。

中でも戦闘の最中、各隊(各武将)ごとにおける勝敗の流れ・見極めは苛烈で、見誤ることが家名の存続に直結する場面での決断は自らのみならず、数多の配下同胞の命に関わるところ。

世に知られる “島津の退き口”。勇猛で知られた “島津義弘” による撤退戦。 小早川秀秋の翻意をきっかけに西軍総崩れの中、孤立無援となった島津勢、次々と同胞の命が失われてゆく状況で “潔き全滅” か “再起を賭けた敗退” かの選択に迫られました。

自刃を覚悟していた義弘でしたが、一点の光明に賭けて退くべしとの甥・豊久の進言を受けて撤退を決意します。

しかし、彼の決めた撤退は退く撤退ではなく “前に打って出る撤退” だったのです。

 

このとき島津の兵数は1500名※、対して前方に広がる東軍は徳川本隊だけでも30000の大軍勢。 後方にも東軍兵力が迫る中といえど、通常の感覚で前進突破の道を選ぶことは、死地へ突入することと同義。まさに追い詰められた雪山で苛烈な頂を目指すがごとき・・。 ※ 特攻時には既に300名まで減っていたという説もあります。

主君を薩摩に還そうと命を賭ける死兵(死を覚悟した兵)たち。 大波のような東軍の中を掻い潜り、さらには完全に停歩して追手を足止めする役の “捨て奸(すてがまり)” を幾重にも出すなど、狂気とも思える島津の特攻に、さしもの東軍もたじろぎ・・。

膨大な犠牲を払いながら、最後は本当に3万の大軍を突き抜け脱出に成功してしまいます。 20〜100倍の戦力差、圧倒的不利な状況にありながら、本隊の前を切り進んでゆく島津勢を 家康はどのような思いで見ていたのでしょう・・。

 

戦場を離れ、追撃を退けたといっても関ケ原から薩摩国までは気の遠くなるような距離。 大阪で落ち合うことを旨に3隊3路に分かれ歩を進めるも、各地で遭遇する地豪の敵襲や村人たちによる落武者狩り、そして飢餓。

伊賀国(現在の三重県)を越える折には、またまた10倍の伊賀衆を向こうに渡り合い、これを打ち破らなければならなかったそうです。

ついには野盗・強盗の振る舞いをしてまで、ようやく大阪に辿り着いたときには僅か80名となっていたのだとか。

大阪城に預けられていた夫人たちをも救出し、義久一行が故国薩摩へ帰国を果たしたのは合戦から3ヶ月も後の師走のことでした・・。

負け戦とはそういうもの。島津隊のみならず、合戦で敗北を喫した西軍各隊のその後は、想像を絶する悲惨なものであったはず。

それでも特に “島津の退き口” が後世に語り継がれるのは、”苦渋の撤退” を超えて “前進による活路” を選び、多大の犠牲を払いながらも それを成し遂げたため。 義久の生還と家名存続のための結束が実ったが故でありましょう。

国許に生還を果たした義久は後に「あのとき自分の心は死んでしまった・・」と言葉を残すほど、盾となって死んでいった部下たちを想い意気消沈していましたが・・。

宿敵ともいえる東軍・徳川方への譲歩には相当に応じず、薩摩国征伐が立案されたときも、交渉を重ね家康にこれを取り下げさせています。 敗軍の将が通常なすべき上洛と恭順の意表明も、存命中ついに行いませんでした。

帰国後も家内で大きな発言力を持ちながら、江戸幕府と堂々渡り合い続けたといいます。

島津義久像(東京芸術大学大学美術館蔵)

関ヶ原の11年後の慶長16年死去。辞世の句は
~ 世の中の 米と水とを飲み尽くし 尽くして後は 天つ大空 ~
(この世のあらゆるものを経験し尽くし、尽くした後 旅立つ空は晴天の大空だ)

 

義久に関わる城は数城に渡り・・。

・伊作城(いざくじょう):薩摩半島西部にあった山城で義久生誕の城(後に廃城)
・清水城(しみずじょう)、内城(うちじょう):島津氏が拠点としていた城(後にどちらも廃城)
・富隈城(とみくまじょう):秀吉の九州攻めに相対し、後に構築した拠点城。(廃城)
・国分城(こくぶじょう):関ヶ原の後、隠棲の対面で新たに築いた城(朱門のみ残存)
・鹿児島城:義久隠棲に前後して甥・忠恒によって築かれ、以後 明治に至るまで島津氏の居城となる。日本100名城、国の史跡。

鹿児島城 別名鶴丸城(つるまるじょう)御楼門(復元)

島津家の城は基本的に前立てとして館作りの居城を構え、後手の山に戦闘や籠城に特化した “後詰めの城” を設けるという形でしたが、それはそのまま国の治世と軍事施設を専門化・分化して運用する合理的な形でした。

歴史的な事情もあるものの、本質的に多重・象徴的な天守などは築かず、郷土と領民に密着した政庁としてあり続けたように思えます。

思えば、関ヶ原に参戦したときも、限られた兵員の内の多くが志願兵であったとか。
秀吉の九州攻め、家康の薩摩征伐において数十万の軍勢に抗しきれずとも、最後まで諦めず国を手放さず粘りに粘って領分を守り続けてゆく。勝者であったはずの秀吉も家康も最後の一手までを詰めきれず・・。

日本を分けた関ヶ原の戦いから幕末に至る中、数百の藩が改易・厳封されてゆく時代を頑として生き抜き、大転換期の原動力の一翼を担うまでになったのは、こうした気質気骨故であったのでしょう・・。 協心と結束こそ薩摩人の本分だったのです・・。

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