夢幻の城を想い訪ねて歩く一日 – 京都府

“一都一道二府四十三県” 、日本全国、各地方の話題や伝承を記事とする都合上、同じ都道府県のご案内に還ってくるまで凡そ47回。 実際にはその他に1県複数回掲載や 地域にまつわらないトピック記事も挟みますので、大体 10ヶ月から一年をかけて一周することになっています。

前回、京都府の記事を新規で掲載したのが昨年1月26日、翻って見ると過去 京都府からはあまりイベントのご案内をしていませんね・・。

まぁ、国際的な観光都市でもある京都、イベントや催し物は数知れず、当ブログより高度で楽しいイベント案内のサイトも沢山あると思いますので、イナバナはイナバナなりの特色を出していけるよう頑張っていきたいと思います。(^_^;)

・・と、いうことで本日は・・、春も本番、暖かな陽射しの中での散策、それも現在 見たくても見ることの出来ないという・・ちょっと変わった探訪、往古の大廈「聚楽第」のご案内をさせていただきます。

 

「聚楽第」 “じゅらくだい”、 近現代において こう読み習わされることが多いのですが、元々は “じゅらくてい” と呼ばれていた可能性が高いそうです。

天正13年(1585年)関白に任官した豊臣秀吉※の、京の都における政庁であり居城でもありました。任官の翌年から着工され15年の秋に落成しています。
※ 正確には、豊臣姓を下賜されたのは任官の後。

世に名だたると言われるほど豪壮華麗な「大阪城」が既に出来上がっていたにも関わらず、なぜ京にもまた居城を造り、そこで政務をとっていたかというと・・。
そもそも秀吉という人の中にあった “支配体制図” というか、豊臣の世における形にあったと言えるでしょうか。

「聚樂第屏風圖」

それまでの圧倒的な武力と服従による相互支配を終わらせ、天下を平定した秀吉は、経済の活性化で世を回して民の不満や領土間の争奪を抑えると同時に、天皇による威光を背景に象徴的な封建体制を築こうとしていました。

時の政権を担う頭領は 古来 朝廷より “征夷大将軍” の役職を賜り、武家の筆頭として振る舞うことが慣例として定着していた中、秀吉にも将軍就任への打診があったのですが、これを辞しています。 その代わりにと請うたのが「関白」(関白+太政大臣)でした。

49歳にして皇族 近衛前久の猶子に入り(養子縁組のようなもの)一時的に “藤原” 姓を得てまで縁故となり、公家の筆頭位ともいえる「関白」の称制を手に入れたのも、その権威のならしめるところであると同時に、こうした豊臣政権の体制固めと見ることができます。

 

「関白」とは天皇の傍にあって補佐を担うもの(形式上ですが・・)。 京の都に天皇とともにあって世に光成す、という大義と威光を世に知らしめるためにも、その身は京に置かなければならなかったのです。

天下平定に近い状態であった当時は「大阪城」も “政権” と “武力” の象徴でしかなく、意外なことに 秀吉自身はあまりこの城を利用しておらず、出世後の大半を京で過ごしています。

異なる面から見るならば、名も無き民草から立身出世を遂げた秀吉にしてみれば、日の本の中心である京の都で、世の頂に立つことこそ至上の夢であったのかもしれませんね。

これほどの夢を賭けて古き内裏跡に築いた「聚楽第」でしたが、その栄華は僅か8年、現在は その見る影もありません・・。

天正15年(1587年)秋に竣工した聚楽第は、秀吉による政権運営が安定すると天正20年には次代 “豊臣秀次” に引き継がれ、さらなる発展が期待されましたが、その3年後に起こった秀次謀叛疑惑に連なる一連の処置によって、完全に破却されてしまったからです。

解体は一部の資材が 後の伏見城などへ移築された以外は徹底的に行われたため、明確な遺構は何も残っていません。 秀次の謀叛所業を世間に印象づけるためともいわれていますが・・、ともあれ “聚楽”(喜びの集う所)の名を冠した、秀吉の夢の具現はこうして永遠に失われてしまったのでした。

何らの形跡さえ残さず 時の帳に消えていった「聚楽第」ですが、現代の市井の端々にも その面影は残されています。 今も碁盤状の目に町家がひしめく この一帯であるが故に、大規模な発掘調査が出来ないのも精査に至らない一因ではありますが、部分的な調査は粛々と続けられ、残された資料と照らし合わせて彼処に石碑や比定地が存在しています。

建ち並ぶ近代的ビルの向こうに、仮初めの大廈を思い浮かべながら歩き始めてみましょう・・。

 

とりあえずは凡その位置とその規模を把握しておきますか。

現代の二条城を基点とすれば地図上でも分かりやすいかもしれません。二条城は中京区の北端に位置し、”聚楽第” はその北側に広がっていましたから今で言う上京区に在ったことになります。

南北にやや長く周囲 1031間(約1880㎡)の敷地であったと伝わりますから(張り出した三つの郭も含める)、凡そ500m x 400m 位の面積、東京ドーム4つが悠々と収まるほどの広さ、外濠の部分まで含めると範囲はさらに倍ほどに拡がるという広範な敷地・・、といわれていますが、あくまで仮説の域・・。

その中でも本丸のあった所というと・・須浜東町の辺りを中心とした一帯・・といった感じでしょうかね。

 

① 「聚楽第南外濠跡」
先ずは、仮定本丸の西側、田村備前町の浄土宗松林寺の門前に一本の石碑が建てられています。 当時、南西側外濠の一部が二重に張られ、”西外門” からの動線を担っていた辺りなのだそうです。


※ 京都府京都市上京区田村備前町243−2

 

② 「聚楽第本丸西濠跡」
先程の松林寺から北に向けて上がり中立売通に交わった、市立正親小学校の角地に立札が掛けられています。上と同じく濠跡と思しき場所ですが、こちらは西側から見た、より本丸に近い内濠ではないかと思われます。 ここから100メートルほど北側に「聚楽第天守跡」に比定される場所がありますが、現在は何らの痕跡もありません・・。


※ 京都府京都市上京区新桝屋町425

 

③ 「黒田如水邸跡」
本丸西濠跡を中立売通に沿って東に移動、北に少し上がった鏡石町の一角。竹中半兵衛と並ぶ秀吉付きの軍師 “黒田如水”(通称:黒田官兵衛)の屋敷があったとされる場所です。 真新しい家屋の間にひっそりと名残りを留めるように石碑が建っています。 聚楽第の周囲にはそれを警護するかのように幾多の武家屋敷が配置されていました。


※ 京都府京都市上京区鏡石町 Merge一条通

 

④ 「千利休聚楽屋敷跡」
さらに北東方面へ100メートルあまり移動、現在そこにあって参拝の人影も多いのは “晴明神社” です。大鳥居の傍らに石碑が建てられ、かつて神社に隣接するこの地が、聚楽第敷地内に構えられた “千利休” の屋敷跡であることを示しています。 利休は秀吉から重用され、同時にこの地で横死を遂げることとなりました。


※ 京都府京都市上京区晴明町806

 

⑤ 「聚楽城鵲橋旧跡」
堀川通を南に下ってホテルルビノ京都堀川の辺りで西に入ります。住宅街の合間に佇む “松永稲荷社” という小さな社。
おそらくは本丸を北に望む、目前の場所だったのではないでしょうか? 二ノ丸から本丸の間に渡る内濠に、後に “鵲(かささぎ)” と呼ばれる橋が架かっていたようです。鳥居の側の石柱の一本に それが記されています。 古には ここから天を突く大城が見られたのかもしれませんね。


※ 京都府京都市上京区南清水町

 

さて、凡そ一周かけて聚楽第の周りを巡って来たわけですが、最後に もう一件。
かつての聚楽第大廈はことごとく、かつ完全に破却されてしまい、資材の幾ばくかは伏見城の築城に利用されたものの、その伏見城も後に失われてしまい、今日その姿を見ることは出来ないのですが・・。

聚楽第の遺構を移築して作られたと伝わる場所が、いくつか残っていまして(あくまでも伝承ですが・・)、その中でも、上京区下清蔵口町の「日蓮宗 由緒寺院 妙覚寺」の山門は、聚楽第の裏門を移築したものと伝えられています。 4月の明ける頃には例年、山門前の桜が見事な花びらをほころばせ、町の人々から愛され続けているそうです・・。


※ 京都市上京区 上御霊前通小川東入 下清蔵口町135

※ 当記事のアイキャッチ画像にイメージとして写っている城は「鶴ヶ城・会津若松城」です。

 

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