湧水の如き女の性 命をも焦がす物語(後)

「契り」 約束、女性にとっても男性にとっても およそ人が生きてゆく中でとても大事なものです。 それは 相互の信頼関係に基づいて交わされるものですから 万が一にもそれが破られた時には状況的な酌量の余地はともかく、相応の苦しみを覚悟せねばなりません。

前回、浄蓮の滝の主との約束を守った男と破った男の末路を描くお話をお届けしました。
当然ながら二人の男は対照的な結末を迎えるわけですが、二人の命運を分けた”約束を守る・破る” の違いはどこにあるのでしょう。

無論、人それぞれに個性があると同時に二人を取り巻く状況も異なってはいたでしょうが、決定的な部分は”約束” に対する意識がより真摯であったかどうかが大きいように思えます。 人と約束を交わす時、それは同時に自らにも約束を課すことになるのです。

「約束」それを形式としてのみ見るならば それは単なる”契約” でしかありません。
約束や契りが人にとって大事なものとされるのは、それを守ろうとする人の心と意識、情熱がなによりも人にとって必要なものであり、それが違えられた時、その人にはその心が無いとされるからではないでしょうか。

 

明確な”約束” が有ったわけでもないにも関わらず、その責任感と孫娘への愛情から一命を賭して憎き敵を打ち破り、やがて神へまでも昇華した老婆の物語が、静岡県の中部に伝わっています。

「老婆沼」−−−−−−−

鎌倉も末の頃 安倍郡麻機村の庄屋の娘に小菊という名の美しい娘がいた

幕府が倒れ 戦休まるとやがて駿河国の新しい国守となられた脇屋義助に見初められその寵愛を受けたそうな

つかの間の蜜月が流れたが しかし義助はやがて新たな戦地へ赴き小菊はこの地に残されることとなった

義助が旅立つ時 すでに小菊には義助との契りを宿しており やがて生まれた子は小葭と名付けられた

 

小葭は大事に育てられたが 艱難多く幼くして母を亡くし庄屋であった祖父や他の身内も失い やがて祖母とのしがない二人暮らしとなってしもうた

つつましき暮らしとなっても健気に生きていた二人であったが ついにはその祖母も寄る年波には勝てず病に伏せるようになった

これまで懸命に自分を育ててくれた祖母の恩を想い 小葭は日夜 介抱に励んだが祖母の容態は思うに任せぬ時が続いた

なんとか祖母の平癒を成そうと思うた小葭は浅間のお社へ百度の参りを思い立ったそうな

 

婆様の病を祓うてくださいと日々お社の石を踏む小葭であったが ある日浅間へ渡る小舟でいたところを その沼の河伯(沼の主・竜蛇)が小葭を見留め 小舟もろとも小葭を水中へ引き込むとこれを喰ろうてしもうた

小葭の悲報を聞いた祖母はあまりのことに病の床から飛び起き 愛孫を亡くしたこと 娘の忘れ形見を失い新田の胤(脇屋義助は新田義貞の弟)を守れなかったことに慟哭し やがて夜が更ける頃
病の身持ちもいとわず ひとり孫娘が消えた沼まで来ると 河伯を呼び覚ます声も高らかに身をおどらせ水面に討ち入ったそうな

老婆の狂気にあてられ水底より出で立った河伯であったが 老婆これもまた その想いからか生きながらにして龍蛇となり この河伯に弔いの戦を挑んだ

野分のごとく異様な響きを轟かせながら 河伯と竜蛇となった老婆の戦は夜を徹したが やがて空が白む頃その響きも聞こえぬようになった

この後 老婆の姿を見た者はなく また時にして村人を困らせた河伯の災いもそれきり無うなった 村人は老婆が孫娘の敵をとったのだろう と噂した

明くる年 その沼一面に美しい花が咲いた
花はやがて水底に実を結び この実は食用にも薬用にも重宝し飢饉の際には多くの村人を救ったという

村人は沼に散った老婆の霊験であろうと話し合い諏訪のお社を勧請しこれを祀ったそうな

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近在のお寺や神社には現在も この老婆にまつわる お堂や遺跡が残っているそうです。
村人がこの老婆を祀った時、水面に老婆が現れて礼を述べたという伝承も残っています。

このお話の中で”約束” という言葉は一度も出てきませんが、老婆にせよ孫娘の小葭にせよ逐一言葉にしない”人として生きてゆく上での約束事” を懸命に果たそうと生きています。

孫娘を失った時、それへの愛の喪失と同時に 自らに課した約束を果たせなかった無念に身を焦がした老婆は、燃え盛る情念の炎で人智を超え無敵とさえ思える神霊の仇敵さえ討ち果たしたのでしょう。

前編でも述べましたが、大洋の如く広く深い慈愛に満ちながら それ故に情念の力計り知れない女性の神秘、水に連なる麻機村(麻の機織りの村)に残る一編でした。

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