終焉か再生か 彼の歩みし道を思う – 北海道

北海道の南西端、津軽海峡に接して突き出した形の渡島半島(おしまはんとう)。南端に分かれた松前半島、亀田半島を含めて北海道の地形を特徴づけるポイントにもなっています。

相対する青森県、こちらも東西に大きな半島を掲げた県となっていますね。東側にマサカリ型とも喩えられる下北半島、西側に古来より北海道に渡る要衝でもあった津軽半島があります。

都道府県・・の地形を、単独の図形としてそのまま見ても何処の県なのか分からないことが時折ありますが、北海道、青森県ともに誰が見ても分かる特徴的な形といえるでしょうか。 後、両腕を広げたカニの形といわれる愛知県や能登半島を持つ石川県、琵琶湖を抱えた滋賀県も分かりやすいですかね・・。

 

さて、津軽半島と渡島半島(特にその松前半島)は、海峡で遮られながらも 往古から両地域を結ぶ結節点でもありました。

本土の文化がまだ畿内中心で、その勢力圏がせいぜい北関東周辺までであった時代には、(明確ではないものの)渡海南下して東北地方に影響を与えたアイヌ文化の痕跡が見えますし、実際に江戸時代辺りまでは一定数のアイヌ民族が、現在の青森県周辺に住んでいたという記録もあります。

津軽半島と渡島半島、その隔たり僅か20数kmとはいえ、一説に潮の川とも言われるほど潮流の速い津軽海峡を、まともな造船技術もない時代に渡るというのは まさに驚嘆の行為であったと思われます。それでも冒険心や、生きるための必要に迫られた一部の人々は身命を賭して渡海に挑んだのでしょう・・。

 

嘉永7年(1854年)頃作られた日本地図(部分)

一方、本州側から蝦夷地(当時の北海道の呼称)に向けての渡海といえば、少なくとも室町時代には蠣崎氏(かきざきし)が、渡島半島南部に版図を築いて後の松前藩の祖となりましたが・・。 蝦夷地介入が本格化する江戸後期から明治以降を除いて、それまで海峡を渡る人は極めて限られたものでした。

蝦夷地に渡った人はさらに古くからあったと思われますが、多くは世に名を残さぬままでありました。 そのような中で(あくまで物語ながら)特に知られた伝承が「源義経北行伝説」でしょうか。

兄 頼朝からの追討を逃れ奥州藤原氏に匿われていた義経ながら、藤原秀衡の嫡子 泰衡の翻意によって自害に追い詰められ、・・ずに生き延びて、陸奥国を通って蝦夷地に渡り、ついには大陸蒙古国にまで辿り着き後、チンギス・ハーンになったという壮大なストーリーです。

 

源義経・・言わずと知れた日本の歴史スーパースターの一雄。
京鞍馬山での修行、奥羽における少年期を経て異母兄 頼朝の平家追討に馳せ参じ、それまで名さえ知られていなかった身上から一転、天才的な軍才を開花させ瞬く間に武名を轟かせると、ついには平家を滅亡に追いやります。

されど増長が過ぎたか 人のしがらみか、その後は兄 頼朝との確執を基に没落の道を歩み やがて非業の最期を迎えた・・という、何せ流転と起伏の極めて激しい人生は甚だドラマティックともいえ・・。後世に続く演劇や創作物に取り上げられるところとなりました。

実際のところ 一方的に義経が悲劇のヒーローだったのか、頼朝が冷徹な支配者だったのか、はたまた後白河朝らによる画策の果てだったのか・・、830年から昔のことなので真実は霞の彼方なのでしょうが、結果、義経が奥州平泉 衣川の館で果てたことは確かであり・・。

それ故に “判官贔屓” の言葉とともに数多の脚色を重ねるところとなりました。

 

追手を逃れて生き延び、蝦夷地をして大陸にまで至り再起を果たす・・ 「源義経北行伝説」もそういった土壌の中で生まれてきたものなのでしょう。

只、この義経北行の伝承には元となった話がありまして・・、それは室町時代に著された「御曹子島渡(おんぞうししまわたり)」(島巡りとも)という御伽草子に原型を見ることができます。

「御曹子島渡」は義経を主人公とした創作話で、頼朝の挙兵以前、まだ10代の義経が津軽半島 十三湊(とさみなと)から出立します。小さ子島、女護ヶ島、蝦夷島などを旅した末に神仏の加護をもってついに千島に上陸。”かねひら” という鬼の王の持つ超常の秘伝書 “大日の法” を手に入れる・・というおとぎ話です。 “大日の法” のお陰で、義経は後年 平家を滅ぼすまでの軍才を得たのだとか・・。

鎌倉時代には既に義経に対する同情と哀悼の下地は整っていたといわれ、室町時代に至る頃には ここまで戯曲化された話が出来上がっていたということですね・・。

この話は徐々に広まり江戸時代には一つの定説として根付くほどにまでなりました。
先にも触れましたように “蝦夷地” というものが まだ一般に未知に近い存在であった時代のこと。水戸藩の御用船が この地の探検と報告をもたらしたことは、世間の耳目を集めると同時に「源義経北行伝説」を振り返ることにもつながったのです。

一種のブームともいえるでしょうか。陸奥国(現在の岩手から青森にかけて)の各地に義経ゆかりの銘跡や聖地が整えられ、寛政11年(1799年)には蝦夷・平取に “義経神社” が建立されます。 清和源氏の流れを汲む身上であり天賦の軍才と劇的な足跡を持つ義経の名は、各地の名声を高める格好の材料ともなったのかもしれません。

明治時代に入ると国家的な意気高揚の機運も手伝って北行伝説は再度取り沙汰され、苦難を乗り越え大陸で立身大成した英雄像が、そのエンターテインメント性と相まって、いよいよ大きな存在感を獲得していったのです・・。

 

このように、現在、歴史学的に「源義経北行伝説」を史実としてみる向きは少数派であり、あくまで物語的な伝承として捉えられるのが一般的な解釈ですが・・。

北行伝説を支えるいくつかの根拠 「事件当時から義経の首級には疑惑があった」「義経自刃前後の頼朝の対応に不自然さがみられる」「東北から北海道各地に明らかな足跡が残る」。そして「用いた白旗をはじめ、チンギス・ハーンの人生の其処此処に義経由来の痕跡がある」等など、事後の義経の存命と長途を裏付けそうな要素は様々に残りながら、今も仄かな光を灯し続けているのです。

少なくとも大陸に渡ってやがてチンギス・ハーンに・・という話はともかく、生きて蝦夷地に落ち延びた可能性は残るかもしれません。 アイヌには古い時代から遠き地より来訪して活躍した者の伝承も残っていますし、文化を与えた神 “オキクルミ” と交えて義経を語る者もいるようです・・。

真正の事実など分からないのが歴史の常、だからこそ様々な考察を呼び、ロマンに溢れ輝くのもまた歴史の楽しさ・素晴らしさでもあります。

自刃したのであれ第二の人生を歩んだのであれ、源義経の魂は八百年の時を越えて人々の心に生き続けているのです・・。 そしてそれは、彼自身だけでなく彼の生きた時代と、関わる土地々々にも数多の華を添えているのでしょう。

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