蒼きカピュシュマの社に海猫集う – 青森県

本州最北端、王冠のごとく鎮座し位置する青森県。 陸奥湾を囲むように西に津軽半島、東に下北半島、中央に夏泊(なつどまり)半島を頂き。

北海道との間に津軽海峡を望み西側は日本海、そして東側は太平洋と・・、思う以上に青森県は周囲を囲む海岸線に多彩な色を持つ希少な地勢ともいえるでしょうか。

その下北半島を南下、岩手県との県境にも近い八戸市に千島海流を見晴らし広がる大須賀海岸という景勝地があるのですが、さらにその北の端の一角に とても小さな島があります・・。

 

小さな島・・といっても現地でその島の姿を見ることはできないでしょう。 何故ならその島は現在陸続きになっているので孤島として認識されることはないからです。

陸続きとなったのは昭和18年、太平洋戦争の最中 国の施策による港湾整備に伴い埋め立てられて陸地の一部となりました。それまでは大正時代に架けられた橋で島に渡っていたのだそう。

その名は “蕪島(かぶしま)” 。古くから続いた地名はそのままに受け継がれ現在に至っています。

春の訪れとともに “蕪の花” が咲く景色を元に この名が付いたという説がありますが、それを裏付けるように咲き誇る季節は一面美しい黄色に染まります。 (蕪 = アブラナ ≒ 菜の花)

他に、アイヌ語で “カピュ(海鳥)+シュマ(小島)” に由来するという説もあります。

往古、東北地方の多くでは北方文化の影響を強く受けていたため、地名においてもアイヌ語に由来するものは少なくありません。北海道に近いこの地が “カピュシュマ” と呼ばれていたとしても不思議ではないでしょう。

事実、この地(元々は島)は春先から初夏にかけて数万羽のウミネコが飛来し繁殖を行う “ウミネコの別天地” として知られているのです。

2月の後半辺りから集まり始めたウミネコたちは、この地で伴侶を見つけると春の盛りに巣を結び抱卵し、やがて巣立ったヒナ共々夏の到来と入れ替わるように北へ向かって旅立っていくのだとか・・。

人に近い場所で巣を結ぶため、その生態観察も容易な稀有な繁殖地だそうで国の天然記念物にも指定されています。(ウミネコによる攻撃を受ける可能性があるため、一般の方のうかつな接触行為は危険です。)

 

陸続きとはいえ元々は島。それも小高い丘になっているため、抜けるような青い空と どこまでも広がる蒼き海原を見渡せる大パノラマな地勢となっています。

そしてその丘の登り口に建つ真っ赤な鳥居。
そう、この島を境内として鎮座する社が『蕪嶋神社』なのです。

創建は鎌倉時代 文永6年(1269年)。世にいう宗像三女神、市寸嶋比売命をはじめとした三姉妹の比売神(姫神)を御祭神に頂き、それは同時に弁財天による海上交通の安全を司る社となりました。

後の世には弁財天の性状に所以する財宝神の霊験と、蕪島の “蕪” が “株” に通じるところから資産増進のご利益も併せ持つとされています。

また、創建にまつわる由緒として文永年間、源頼朝の勘気を被り当地に流された “犬房丸”(鎌倉幕府の御家人 伊東祐時(いとうすけとき)が故郷である伊豆の景色を当地に見いだし、望郷の念抑えがたく弁財天を勧請したことが社のはじまりと伝わります・・。

 

只、この話には少々齟齬がありまして、史実としての御家人 伊東祐時は流罪にはなっていません。 どころか頼朝の重臣として重用され将軍御使として活躍し大和守に叙任されるなど栄達の人生を歩んでいます。

では何故、流罪などという伝承が生まれたのかというと、それは伊東祐時の父 “工藤祐経(くどうすけつね)” に因を求められるでしょうか。

“工藤祐経”、頼朝の重臣でありながら その所領争いから、結果的に建久4年(1193年)富士野において相手方の子孫である曾我兄弟に討たれるという憂き目に遭います。世に知られる “曾我兄弟の仇討ち” です。

歴史的な見地としては同族間の抗争なのですが、曾我兄弟が窮乏の暮らしを乗り越えて仇を討ち果たしたという経緯から この事件は美談とされ伝承・講談などで語り継がれるうちに “工藤側は悪役” の構図が出来上がってしまいました。

畢竟、その子である伊東祐時にも悲嘆に至る物語が組み込まれ、父亡き後 頼朝に仕えるも失態を犯し遠き地に流される・・サイドストーリーが生まれたのでしょう。(長野県など他の地方にも伊東祐時終焉伝説があります。)

これらの物語を元として、いわゆる “貴種流離譚(きしゅりゅうりたん)” の形が出来上がっていったのかもしれませんね・・。

 

とはいえ、蕪島に伊東祐時の一族が何の関わりをも持たないかというとそうではありません。

伊東祐時の時代からは少し後になりますが、14世紀奥州において事実上の支配権を得たのは甲斐国発祥の “南部氏”。この南部氏と伊東氏は鎌倉幕府創立時から共に働いた僚友であり大きな結び付きを持っていました。

真冬(元旦)の蕪島

南部氏が入府した折も伊東氏は南部氏を支える有力な家臣として随伴、八戸周辺地域に地盤を築き子孫を広げていったのです。 現在でも当地に “伊藤(伊東)” 姓が数多に見られるのはその末裔ともいわれています。

こうした歴史の経緯に前述の凋落ストーリーが交わることで叙情的な創建伝承が出来上がったのかもしれません。 地元の有力武家であれば実際に神社設立に関わったとも考えられますしね・・。

 

3月も末にはカピュ(ウミネコ)の数もピークに至り、その光景は眼前に広がる蒼海に映えて圧巻の眺めとなるでしょう。

蕪嶋神社の脇には海浜公園海水浴場もあり、夏の賑わいを思いながらの散策も味わい深いものかと思います。

奥州の果ての一角に息づくウミネコの集う地の社、機会があればぜひご参拝なさってください。

注:数万羽のウミネコ・海鳥にまみえる場所であるため “糞害” も多く発生します。 ご来訪の際はお召し物への注意や、傘の携帯を強くお勧めします。

『蕪嶋神社』VISIT HACHINOHE

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