奈良県の中央部、明日香村や橿原神宮からもアクセスの良い高取山の山中。 静かに厳かに、そして一面ユニークとさえ思えるほど盛りだくさんの見どころで知られる西国三十三所第6番札所 “南法華寺”『壷阪寺』からお送りしています。
ところで壷阪寺、南法華寺(みなみほっけじ)という正式な寺号があるのに何故壷阪寺なのでしょうか?
実はこれ、南法華寺という名称の方が後から付けられたものであることが関係しています。
それは前回でご案内した壷阪寺の創始、弁基上人愛用の水晶でできた壺の逸話。
弁基上人がこの山の坂の上に小さな庵を結び そこで修行を積んでいたとき、水晶の壺の中に観音菩薩の姿を感得し、その姿を像に彫り込み祀ったのが寺としてのはじまりと前回でご案内しましたが・・。
その後 このお寺が人々に知られ多くの崇敬を集めると、その由緒たる “壺の坂” そのままに当寺とその地域の呼び名として定着し、現在も地名として “壺坂” の名が引き継がれています。
ついには朝廷の耳にまで届くところとまでなった壷阪寺。水晶の輝きに起因しての眼病封じにあやかった元正天皇(第44代・女皇)はその霊験に感激し、まだ正式な名を持っていなかった壷阪寺に「南法華寺」という寺号を下賜しました。 その頃、山城国(京都)に “法華寺” という有名なお寺があったため、それに対して大和国(奈良)の南にあるこの寺を「南の法華寺」としたそうです。
いうなれば「壷阪寺」が庶民によって付けられた通称であるのに対し、「南法華寺」は朝廷によって付けられた公式な寺号ということになります。 しかし、現在にあっても「壷阪寺」の名のほうが通りが良いことから見ても “壺坂” の名がいかに親しまれているか伺い知れるところですね。
さて、壷阪寺に関わる著名な話と言えば「お里沢市」伝承であることはいうまでもありません。 ご存じの方も多いでしょうが、おさらいの意味も込めてここに載せてみたいと思います。
『お里沢市』
時は寛文年間(江戸時代中期 1661年~1673年)のこと、壷阪のふもと高取の里に お里と沢市という夫婦が住んでいた。
この沢市、元々は紀州の良家に生まれた裕福な身の上であったが、幼いころに患った疱瘡(天然痘) により目の光を失い家業を継ぐこと能わなくなってしもうた。
目をしいたまま生きてゆくのは何かと不自由。 親は沢市の身の回りの世話を奉公人であったお里に頼んだ。 日々の暮らしの助けから沢市が座頭になるための琴三味線の習いの仕度まで、お里は愚痴ひとつこぼさず沢市を支え続けたそうな。
年頃となったお里と沢市、いつしか分かち難い縁で結ばれていた二人だったが、家を継げぬ身であっても生きていかなくてはならぬ。
身内の反対を押して伝手のあった高取に居を移し、沢市は座頭として働き お里は細々とした内職を賄うて、慎まやかな暮らしを立てたのだと。
目が見えぬことの苦労と決して楽とはいえぬ日々ではあったが、互いを思いやり支え合う仲睦まじい姿は高取の里でもうわさになるほどであったと。
ところが、あるときから沢市にひとつの不安が芽生えはじめることとなる・・。
夜毎 明け七つ(午前四時)の頃にもなると、お里が床を抜け出し何処かへ出掛けていることに気付いた。
お里に限って間違いはあるまいと思う反面、このような時刻に日々出掛けているのも妙なこと。
思えば幼い頃から自分の世話ばかりに身を費やしてきたお里、いい加減 愛想を尽かされても仕方あるまい。 いや、そればかりか外に良い男ができたのだろうか・・。
疑念の心は日毎に募り強まり、ある晩 沢市はついにお里の後をつけて夜道を辿ることとした。
微かなお里の足音と杖を頼りに暗い夜道をゆく沢市。
目をしいているので詳しくは分からぬが山道ばかりを辿っている。このまま行けば壷阪のお寺ではないか・・。境内で逢瀬でもするつもりか・・。
やがてそのまま寺にまで付いた沢市が耳にしたもの。それは寺の石畳を尽きることなく行き来するお里の足音ではないか。 本堂の前に着く度 夫の目の完治を祈る細々とした声・・。
ここに至って沢市は絶望にも似た後悔に苛まれた。
何年何十年と自分を支えてくれたお里、あまつさえ寝る間さえ削って自分の身を案じてくれる有り難い妻を愚かにも疑ってしもうたのだ。
このような馬鹿な男などお里には申し訳ない。自分などいなくなってしまった方がお里も少しは楽になるだろう。
思い詰めた沢市はとうとう壷阪の崖から身を投げてしもうたのだと・・。
このことを知ったお里はたまらない。夫を想っての百度参りがその命を奪うことになろうとは・・。 夫一人で旅立たせるなど考えられない。沢市が飛んだ崖から間を置かずお里も身を躍らせた・・。
どれだけのときが流れたのだろう。辺りは柔らかな光に包まれている。
隣にお里がいて そばには観音様が立っておられる。
そこに至って沢市は初めて自分の目が開かれていることに気付いた。
観音様は仰った。 お里の夫を想う一途な願いに免じて二人の命を助け、さらに沢市の目も開けて進ぜると・・。
こうしてお里と沢市は新たな生と光を得た。
二人が以前にも増して睦まじい余生を送ったことはいうまでもない・・。
お里沢市の凡そのお話をお伝えしました。夫婦愛を軸に千手観音の霊験と、オーソドックスながらも感動的な結末は親しみやすく安心して見ていられますね。(伝承には些かの異伝もありますのでそこはお汲み取りを・・。)
只、この話の原典は意外と新しく、明治時代に起草・上演された浄瑠璃「壺坂霊験記」がもとになっています。
創作の物語であるため お里沢市とも実在の人物ではなく、またモデルとなったと思しき夫婦も見当たりませんが、この話の成立には舞台となった江戸時代の世相や、壷阪寺に寄せられた印象が深くそして巧妙に反映されているのです。
沢市の出自として語られる良家生まれの設定は、裕福な身持ちから一転 避けがたい運命によって、当時過酷な立場であった座頭への落差を印象付けるものでありましたし、それ故に沢市を支えるお里の健気さを際立たせる効果もありました。
また “紀州出身” は、壷阪寺と縁を持つ “高野山真言宗” との縁に沿ったものであり、和歌山県北東部と奈良県中西部という地理的要件に適ったものでもあったのです。
そこへ江戸時代に流行した “世話物話”。苦しい状況下で貫いた人情や夫婦愛・親子愛が感動的な結末をもたらすという構図が上手く融合されることで、普遍的とも思える名作を生み出したのでした。
古くから伝えられる “眼病封じの壷阪寺” にとって至上の、そして必然ともいえる伝承的物語として語り継がれることとなったのです。
創作話でありながら、お里沢市 “投身の谷”(壷阪寺境内)や “夫婦の墓”(信楽寺しんぎょうじ)があるというのも人々に愛され親しまれた故の証左と言えましょうか・・。
眼病封じも夫婦伝承も、何ら裏付けのない作り話と言ってしまえばそれまでかもしれませんが、そこには人間が生きてゆく中での切なる願いがあり、固く結ばれ支え合う人情・愛情が息づいていることに疑いはありません。
そしてそれらは人の根幹に触れるものでもあるのです。
ともすれば、そのユニークさに焦点が当てられがちな壷阪寺ですが、その根底は水晶のごとき心の開眼と思いやりを今に伝えるお寺ともいえるのではないでしょうか・・。







