福島県猪苗代湖の北、美しい山容をして県民の誇りであり古くから同地の象徴でもあった山が磐梯山。標高1816m、別名 会津富士、会津磐梯山とも呼ばれ、古より “宝なる山” とも讃えられて万葉集 “陸奥国ノ歌” にも詠まれた名山です。
“磐梯山(ばんだいさん)”、元々は “いわはしやま” と読み、その意は “空に架かる磐(岩)の梯(はしご)の山” であったそうで、まこと この地の誉れを表していますね。
ところが一方で、古く “病悩山” や “患わし山” とも呼ばれていたそうで、苦痛の対象としても見られていました。
これは磐梯山が現在も活動を続けている活火山であり、過去大小様々な噴火を繰り返していることに起因するものだと思われます。
特に今から140年前の1888年(明治21年)には、水蒸気爆発をきっかけに大規模な火砕流を引き起こし500名を超える被災者を出したことが記録に刻まれています。
南側から見る “表磐梯” の秀麗な山体と裏腹に、北側の “裏磐梯” が苛烈な山体崩壊の跡を残しているのも、このときの大規模な山体崩壊が原因だそうです。
一見、美しく見える表磐梯側も含め、太古からの噴火による崩壊によって初期山体から200m以上減失しているそうで、元々は富士山型の2000m級の山だったともいわれています。
表裏一体、自然の恩恵と災害は常に隣り合わせであり、人の暮らしも その内にあって紡がれているということでしょう・・。
そんな磐梯山を眺めるように西側に位置する1403mの山が、・・その名も「猫魔ヶ岳」です。
「猫魔ヶ岳」、何ともはや民話やアドベンチャー物の漫画にでも出てきそうな奇怪な名前ですが、作り物ではなくれっきとした正式名称です。
只、これだけ特徴的な名で呼ばれているからには、当然のように これにまつわる伝承が残されているわけで・・。 まぁご想像のとおり “化け猫” に類する話なのですが・・。
とりも直さず本日は そのお話をお届けしましょうかね・・。
『猫魔ヶ岳の化け猫退治』
昔々のこと・・。
磐梯山の北の麓にある桧原に穴沢善右衛門という者がいた。
先祖代々、この地の開拓と守りに功を積んで里の民からも慕われておったと。
あるとき、善右衛門は日頃の労いを兼ねて、妻と下男を連れ磐梯山の温泉に湯治に出かけた。
所用に煩う日々を忘れて心身を休める湯治場はまことに心地よく、暇にまかせては釣りに出て、挙げ句そのまま山小屋に泊まることもあったと・・。
その日もいつものように下男を連れ、釣具を携えて山裾の小さな沼に向かった。
面白いほど獲物がかかるので時も忘れて興じておると、いつの間にか日も山の端に隠れ辺りは薄暗くなってしまっていた。それで善右衛門たちは また近くの山小屋に泊まることにしたそうな。
小屋では串に刺して焼いた魚の美味そうな匂いが漂い、下男と獲物の話などしながら夕飯をはじめたときだった。
入口の戸を叩く音がする・・。下男が応じて戸を開けてみると一人の老婆が入ってきた。
こんな夕闇の中 山奥に女一人でと怪訝に思いながら老婆の顔をよく見ると、それは善右衛門がまだ幼い頃の乳母であった。
「若さまが大変ご立派になられて、この辺りに湯治に来ていらっさると聞いたもんで、只々お会いしたい思いで やっとのこと訪ねてめえりました・・。」
そういう老婆は、容姿こそ衰えていても往時の面影が残っていた。
善右衛門はたいそう喜んで、 手をとらんばかりに炉端に迎え入れ焼いている魚を与えた。
すると乳母は喜んで、まるで何かに憑かれたように食べた。 あまりの激しい食べ方に驚いた善右衛門は半焼きの魚も与えてみたが、それも構わずに平らげてしまう。
話をしてみても何となくつじつまが合わない・・。
そうこうしているうちに夜もだいぶに更けてきた。 ふと一陣の風が小屋の中を吹き抜けた。下男はまるで睡魔に魅入られたように眠り込んでいる。辺りにはどことなく生臭い臭いが漂いはじめている。
善右衛門は薪を取りに立つように見せかけ、乳母の後ろに立つと小さな木切れでその耳たぶをそっと突いてみた。 すると乳母は思わずピクピクッと耳たぶを震わせるではないか。
とてもではないが、それは人の所作にあらず。
これは やはり噂に聞いていた魔物に他ならぬと悟った善右衛門は、腰に差していた名刀貞宗を抜くが早いか一撃のもとに乳母を斬りつけた。
ギャーッという凄じい叫び声が静まり返った山に響く・・。
下男はそれでも気付かず 眠り込んでいた。善右衛門はひと晩じゅう焚火を絶やさず、その屍を見守っていた。 時が経つにつれ、もしや本当に自分の乳母だったのではないかと不安がつのってきた。
ようやく辺りが白みはじめ、間もなく一条の朝日が小屋の隙間からその屍を照らす。
するとたちまち乳母の屍は大きな老猫の死骸に変わった。
やはり化け物であったかと胸を撫でおろした善右衛門は、まだ眠りこけていた下男を揺り起こし、理由を話すと身支度を調えて宿に向かって急いだ。
山道をだいぶに行くと、向こうから息せききって走って来る同じ宿の下男と会った。
その下男が言うには 「昨夜、奥さまが急に一人で何処さお出かけになり、あんまりお帰りが遅いんであちこち捜したけんども何として見っかんねえです。今も皆して捜しているんだげんじょ本当に申し訳ねぇ・・」
背筋に冷たいものを感じた善右衛門は、急ぎ山を下りると村人たちを動員して妻を捜し回った。
付近の山は険しく捜索は容易でなかったが、 夜を日に継いで休む間もなく捜した。
そして二日目の夕方、ついに断崖に立っている老樹の枝に架けられた妻の骸を見つけた。
何ということ・・。打ちひしがれる善右衛門であったが、とりもなおさず妻の骸を降ろしてやらねばならぬ。 木の傍に一人の木こりがいたので その男に声をかけた。
「あの木に架けられているのはおれの家内だ。 望み通りの礼は致す。どうかここまで降ろしてやってはくれまいか・・。」
と善右衛門が頼むと、木こりの目がギラリと異様に光った。
「そんじゃ、あんたさまが腰に差してるその刀を貸してくなんしょ」と言う。
怪訝なものを感じた善右衛門
「いや、こればかりは如何なることがあろうと人に貸すわけにはいかぬ。先祖代々伝わった大事な刀じゃからな」
と断ると、木こりはたちまち眼尻を吊り上げ恐ろしい形相となり
「やい!善右衛門、わしはこの岳の主じゃ! 貴様は一昨夜 我が妻を一刀のもとに斬り殺しただろう。その仇を討つため貴様の妻を食い殺し、木にぶら下げてやったのだ。 憎し刀をどうしても渡さんと言うならば、貴様もきっと噛み殺してくれようぞ!」
と叫ぶが早いか大きな老猫の正体を現し見る間に樹の枝にかけ上り、善右衛門の妻の骸を口に咥えると 宙を飛ぶように消え失せた。
元はといえば人をたぶらかし害を成さんとした魔物が因であろうに、我妻に手をかけるとは・・。
怒りに震えた善右衛門は桧原の方からも大勢の村人を集め、自ら先頭に立って指揮し山となく 谷となく隈なく捜し歩いた。
そして八日目の朝、とうとう大きな洞穴の奥で目を光らせていた老猫を見つけ一刀のもとに斬り倒しこれを退治した。 傍にあった妻の骸を取り戻し桧原に連れ帰って手厚く葬り供養したという・・。
善右衛門が振るった名刀貞宗は、その祖先の穴沢越中守俊家(あなざわ えっちゅうのかみ としいえ)が文明一八年(1487年)に、地域を騒がした山賊郎党二百七十余人も打ち滅ぼした功績により、会津の領主 芦名盛高から授けられた名刀であったと伝わります。 この刀は “切丸” とも呼ばれ、長く穴沢家の家宝として伝えられたともいわれているそうです。
とまれ、可哀想なのは善右衛門の奥さんですが、話自体が民話ですから実際に起こったことかどうかは置くとして、こうした山賊や敵対勢力との抗争、また戦国期における伊達氏との抗争などが伝承成立の背景にあったのかもしれません・・。
他方、猫魔ヶ岳の南西側の麓、現在の磐梯町に “磐梯山慧日寺(えにちじ)” という仏教寺院跡がありまして、元々は法相宗の僧・徳一によって平安時代に建てられた寺であったそうですが・・。
古い時代、寺院にとって宝物でもある “経典” は、その性質からネズミにかじられる被害に遭いやすいとされていて、その対処のために寺で猫を飼っていたともいわれています。
その猫を恵日寺の僧が仏法守護の神格として、修験場でもあった山に祀ったことが “猫魔ヶ岳” のはじまりという伝承もあり、その証左かどうか詳らかではありませんが山の西側には今も “猫石” と呼ばれる岩が鎮座しているのだそうです。
自然の織りなす恵みと災い、そして人の営みと絡んで生まれる喜びと悲しみ、生と死、それらは分かたれることなく表裏一体として息づいているのでしょう・・。








