どろぼう橋伝承から見る江戸期の面影(前)

埼玉県川越市の中央、人口の密集した地にありながら、そこはかとなく懐かしい情緒を漂わせる町並みに囲まれて一画の杜に佇むのが『星野山 喜多院』。別名『川越大師』です。

「 昔、この橋は、一本の丸木橋であったといわれ、これは、その頃の話である 」

神妙な一節は、川越大師 喜多院にある立札由来書の冒頭部です。

「 ここ喜多院 と東照宮の境内地は御神領で、江戸幕府の御朱印地でもあり、川越藩の町奉行では捕らえることができないことを知っていた一人の盗賊が、町奉行の捕り方に追われ、この橋から境内に逃げこんだ。しかし盗賊は寺男たちに捕えられ、寺僧に諭され悪いことがふりかかる恐しさを知った。盗賊は厄除元三大師 に心から罪を許してもらえるよう祈り、ようやく真人間に立ち直ることができた。そこで寺では幕府の寺社奉行にその処置を願い出たところ、無罪放免の許しが出た。その後、町方の商家に奉公先を世話されると、全く悪事を働くことなくまじめに一生を過ごしたという。 この話は大師の無限の慈悲を物語る話として伝わっており、それ以来、この橋を「どろぼうばし 」というようになったということである。 昭和五十八年三月 埼玉県 」

 

埼玉県川越市の “ 星野山 無量寿寺 喜多院 “ 通称 川越大師

平安初期(天長7年 / 830年)唐に渡る前の慈覚大師 円仁 によって建立された天台宗の寺院。

江戸期となり慶長4年(1599年) 大御所 家康の腹心ともされた天海僧正が第27世として法灯を継ぎ、それまでの「北院」から「喜多院」と名を改めたといわれています。

家康逝去の折にもこの寺院で天海僧正が導師として大法要を執り行い、以後、徳川家との結びつきも厚く、寛永15年(1638)に起こった川越大火では山門を除く大半を焼失するも、3代将軍徳川家光の命により江戸城内御殿の一角を移築するなど、幕府の尊崇・別格の待遇をもって天下に名高い名刹として今日に至っています。

「日本三大羅漢」の1つと言われ、538体全ての石仏の表情が異なると伝わる「五百羅漢」は仏像ファンのみならず、多くの参詣者の興味を惹きつけてやまないスポットとしても有名ですね。

「どろぼう橋」(どろぼうばし、どろぼうはし とも)は、本堂・慈恵堂の裏手に掛かる橋であり、昭和47年にコンクリート製の橋にかけ替えられるまでは 木橋であったと伝えられています。 往古にあっては由来書のとおり丸太橋であったのかもしれません。

 

さて、上記の「どろぼうばし 」伝承、事績の真偽はともかく、中々に温情と更生の念に溢れた興味深い内容となっていますね。

ともあれ、この話の中に 二つのポイントを見出すことが出来ます。
一つ目は「橋」の存在であり「橋」もしくは何らかの境界で隔てられた一般社会(俗世)と 寺社(治外法権領域)の存在。
そして、2つ目は一度 俗世(それまでの人生)から切り離された者の新たな人生という 概念でしょう。

ー 境界で隔てられるもの ー

町方に追われた盗賊は、喜多院が治権の及ばない場所であったことを知っており、ここに逃げ込んだとありますが、これは喜多院のみの話ではなく当時の寺社内において町奉行所の権限は建前上及ばなかったため、他の寺社に逃げ込んで捕縛からは免れたかもしれません。 時代劇などでも「寺社奉行に委ねなければならぬ・・」などというシーンがありますね。

とは言うものの、事実上、犯罪が明白で町人レベルの犯罪者の場合は、逐一 寺社奉行の裁断を待っているのも不合理極まりなく、暗黙の了解の内に寺社領に町方が踏み込み捕縛、手続きのみ町地捕縛処理というのも少なくなかったようですが、喜多院は神領であり幕府朱印地でもあったことから 上の伝承にあるように町方も手を引いたのかもしれません。

当時の司法制度、とりわけ犯罪と その取り締まりに関する決まりは現代と異なり誠に複雑面倒なものであったようで、上記のように寺社奉行管轄の他、武家屋敷内、領地、江戸以外の天領や郡など犯罪の起こった場所、下手人(犯罪者)が捕縛された場所ごとにそれを処断する管轄があり、また、下手人の身分(領主、旗本や御家人、町人・無宿人)ごとに取り扱いが異なるという 誠に不合理なものでした・・ (現代においても、各都道府県警所轄 など一定の管轄取り決めはあるものの、その連携はシームレスに行われています。)

そもそも、時代劇などで最も馴染みの深い ◯町奉行所、お白州で下手人を前に「打首獄門!」「遠島申し付ける!」などとやっていますが、実際には 町奉行所の権限で出せる判決はせいぜい中程度の追放刑(所払いなど)であり、それ以上の重刑については吟味方や奥右筆という課役を通して老中の認可を仰がければならず、やおら簡単に「之にて一件落着!」とはいかなかったようです。

 

これら 往時の社会制度が複雑怪奇を極めたのは身分制度の存在とともに、そもそも国内が幕府による一括統治でありながら、事実上 強い自治権を持つ多数の国(藩)の集合体だったため、法にせよ文化風習にせよ中央と地方での隔たりが大きかったことが挙げられるでしょう。

以前、「度会県って何? 全国で300県越えって?- 三重県」でお伝えした、明治政府による性急な「藩潰し」の政策は、国内でバラバラであったルールを一元化し 中央政権制を推し進めて日本を強国化するという狙いがあったが故でしょうね。

さて、境界で隔てられたこちらと向こう、次回はもう一つのポイント「一度 俗世(それまでの人生)から切り離された者の新たな人生」に着目してお送りしたいと思います。

現在のどろぼう橋

『 川越大師 喜多院 』 公式サイト

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