さてさて、山の鯨と海の猪のカップリングでお届けしました前回に替わり、今回は「山の蛇と海の鯛」一見出身地としては順当な選抜カップリングのお話です。
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和歌山県は特に南北に長い地勢で、地図で見るなら上から 県庁所在地でもある “紀北” 有田みかんで有名な “中紀” そして観光地としても知られる “南紀” と主に三つの地域に分けることが出来 それぞれに文化・風習にも微妙な違いが見られます。
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今回のお話の舞台となる地はその内の “南紀” 本州最南端でもある和歌山県潮岬の近く、古座町に残る民話で、民話に連なる祭事が今もなお残る縁深いものと言えるでしょう。
そして、前回と並び住む地の違いを越えて紡がれたお話でもあります。
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但し、ちょっとだけ悲しいお話でもありますので・・
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「 鯛島と清暑島 」
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さても今は昔
大海原に流れ込む熊野の流れ古座川の岸のたもとで戯れる一対の小さな影があった
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一方は普段は山地に住み海方を目指して降りてくる若々しい雄の蛇
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そして もう一方は古座の海に住まい岸辺に上がっては蛇が来るのを待つ雌の鯛
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蛇と鯛なんて妙な取り合わせだと思うかも知れんが ふたりは幼い時にふとしたことで知り合い それからずっと仲睦まじく遊んでおった
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やがて月日が経ち ふたりそれなりの歳ともなると遊び心を越え 互い惹き合う気持ちとなったそうな
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しかし惹き合えば惹き合うほど互いの住まう地の違い 生きる術の違いが気にかかる
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鯛は言うた
「蛇様 今はこうしてお会い出来るけれど ゆく先いつか私は海の底深く戻らねばならぬ身 そうなれば 蛇様は私のことなど忘れてしまいましょうに」
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蛇は応えた
「何を言うのだろう鯛殿 あなたこそ私が今より大きな蛇となれば 恐ろしゅうなって近づいてもくれぬようになりはしないかと それだけが気掛かりで」
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今を想い先を案ずる心は逢瀬を重ねるごとに降り積もり ふたり胸を痛めておった
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しかし悲しきことに その年 古座川を襲った黒雲は驚くほどの大雨を降らせ川は瞬く間にあふれかえり 数えきれぬ土くれと折れちぎれた木々を押し流して海にはけた
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蛇と鯛も身は助かったが ふたり逢瀬を重ねていた岸辺は跡形もなく削り取られ 二度と逢うこと叶わなくなってしもうたのだと
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もうどうすることも出来ず 蛇は小高い丘の上から鯛に別れを告げ すごすごと山へ引き戻っていった
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鯛もこれが潮時なのかと己の身の運命を思い 深い海の底へと沈んでいったそうな
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しかし、蛇も鯛も元の棲家に戻ったものの 相手を想い慕う心は時に薄らぐどころか増すばかり
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逢いたい 逢いたくても逢えぬ
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その辛さは ある日とうとう ふたりそれぞれを動かぬ岩に変えてしもうたそうな
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それを見た古座の人々は 陸地を望むかのように波間から立つ岩を鯛島(たいじま)
宇津木の川辺から海を想うように佇む岩を清暑島(せいしょとう)と呼んで蛇と鯛ふたりの想いを偲んだのだと
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この話は神々の知るところとなり 中でも大黒天と弁財天の計らいによって 年に一度 鯛の想いを蛇に引き合わせんと始めたのが 今に続く古座の河内(こうち)祭りなんだと・・
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江戸期の食肉文化を背景に描かれた前回「山の鯨 と 海の猪」と異なり、こちらは シンプルな悲恋の物語です、安易な考察かもしれませんが 蛇と鯛を人間に置き換えるならば、山村の青年と漁村の娘さんの叶わなかった恋の物語(いわゆる ロミオとジュリエット的な)を民話に事寄せているのかもしれませんね。
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ここで言及される古座の河内(こうち)祭り は 例年7月の末に古座川下流流域を舞台に行われる「日本遺産」にも認定された祭事です。
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古には南紀南端において並ぶものなしとまで言われた絢爛優雅な祭事で、古座川下流の一角、宇津木流域に浮かぶ 清暑島 と 古座沖合の 鯛島(九龍島に隣接)を結ぶ(距離)約3kmのルートを陣幕や幡で華々しく飾られた渡御船が行き来しながら神事を催します。
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清暑島は元々は陸地の一部であったものが一部陥落して 島嶼の形を成すようになった岩礁ですが、ここは聖域とされており この祭の時をおいて普段人が立ち入ることはありません。
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別名「御船祭」とも呼ばれるこの祭にあって御船の渡御をはじめ地元中学生による櫂伝馬船(かいでんません・現代でいうカッター船のようなもの)の競漕や花火の打ち上げ、獅子舞・神楽なども執り行われますが、一連の祭事の中で重要な役割を果たすのが 童齢の女子1名男子2名で成す「ショウロウ」
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稚児装束の「ショウロウ」は古座の海を望む「古座神社」にあって禊を受けた後 ”神の依代” として扱われ、当舟(とうぶね)に乗って川上の “河内様”「清暑島 / 河内神社」まで遡上し神事を済ませますが、その間決して地面に足をつけぬよう 陸地を移動する間は若衆によって背負われて渡られるそうです。
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源平の合戦に与し勝利を上げた熊野水軍の凱旋を模したと伝えられるこの祭ですが、祭礼自体の起源はさらに古く、元々は水神信仰を本体としたものであったのではないかとも言われ、 また「ショウロウ」ほど目立たぬものの 川上の高池地区においては「オヒサシガンド」と呼ばれる老齢の婦人1名と童齢男女2名が呼応するように立てられ、川上と河口(林産域と漁業域)という異なる生活圏を結ぶ形で行われる 珍しい祭事の奥深さを物語っています。
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前回 お届けした「山の鯨 と 海の猪」の中で触れた神事に、霜月七日は樵(きこり)をはじめ誰も山に入らないということを書きましたが、11月7日、この日は ”立冬” にあたり山が冬支度に入る節目でもあります。
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凍えを迎え 人も山もその生きる術を見直し、日頃の山への感謝と新しい春を迎える願いを立てて神聖な一日としてきました。 現在でもこの日は「紀州 山の日」として特に林業関係者には大切な日とされています。
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山の祭事も海の祭事も、そこに住み生きてゆく人々の日々の感謝と謙虚な願いのもとに生まれ語り継がれてきた悠久の歴史を持ち合わせています。
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そして、住む地、生きる環境の異なる共同体同士が出会い 関係を持った時、様々な驚き、葛藤や問題、見識を生みながらも新たな歴史を刻み始めるのでしょう。
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そこには現代の国際社会における問題にも通ずる何かがあるのかもしれません。