田に立つ悠然の御姿 あの御仁はどなたかな?- 奈良県

「斑鳩・太子道」 飛鳥時代、斑鳩宮(現在の法隆寺)から 飛鳥小墾田宮(あすかおはりだのみや・現在の明日村)を結ぶ一本の小路、ここを通われた ”貴人” を忍んで この道を「太子道」と呼ぶそうで、その途中その名も「安堵町」の飽波神社境内には貴人がひと息つかれた「腰掛石」が有るそうです。 いかにも奈良らしい安らかで風雅な古跡ですね。
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貴人の名は “聖徳太子”、昭和時代の歴史教育や旧一万円札などで知らぬ人無き飛鳥時代の偉人であり、徳をもって政に臨んだ方として様々な伝説・逸話とともに 日本の歴史に燦然と輝いています。
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その実在性についてはいくつかの疑義も出ていますが ”厩戸皇子” といわれる皇族が存在し後の世に語り継がれるほどの事跡を残したのは事実なのではないでしょうか。
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この「腰掛石」から北東に約2km、のどかな風情満ちる田園地帯にユニークな案山子が集う「安堵町かかし公園」があります。ここは近隣住民が個人の方が始めた「ミレーの落ち穂拾い」を模した「案山子」作りに端を発し、案山子の数はその後 地域住民の協力もあって200体に達したそうです。
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この「安堵町かかし公園」の一角に佇むのが 一体の「聖徳太子像」高さは約12m、安堵町のプレステージモニュメントとして2018年建てられました。
柔和な面持ちで北西(法隆寺の方角)を向いておられます。

 

 

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「奈良県」 古代の風薫る風土と 多くの寺社・名勝が点在する、正に日本の歴史の原点を物語る悠久の土地柄であり世界的にも通じた観光地でもありますが、一節には同じ歴史的観光地として名高い京都に比べると宿泊施設やアクセス、観光におけるユーザビリティにおいて一歩を譲るとされています。
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この節の正確性は一旦脇に置くとして・・ 同じ歴史的観光地にありながら何故こういった話が出てくるのでしょうか?

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神武天皇によって開かれたヤマトの国、葛城王朝、三輪王朝、そして平城京の立都に至るまで その歴史はあまりに幽玄で、それ故に考証も中々定まらないほどの深さと広さを持った奈良の地。
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前章たる大和時代・飛鳥時代を含め200年に届く歴史を奏でる奈良時代、多くの民と繁栄、古刹と逸話を残しながらも8世紀の終わりには その都市機能を山城国(京都)に移し終焉を迎えます。
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水利・水運に優れ 東西に交通の流れを持ち 人口を増やしていった平安京や難波京・近江京をよそに、都としての意義を失った奈良はその後、名刹に関わる諸事を残しながらも国家としての歴史の流れからは科外のものとなり ”過去の地” となってしまいました。
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そして、その流れは江戸期から明治の頃まで続き、驚くべきことに 明治時代の(いわゆる)“廃藩置県” では 明治4年(1871年)に「奈良県」として設置されたものの、明治9年(1876年)には お隣の堺県(当時)に組み入れられ、その後 明治20年(1887年)11月4日まで大阪府の一地域とされてしまうなど大きな不遇を囲う時代も有ったのです。

 

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後の国家の礎でもある “大和朝廷” 発祥の地でありながら 本流の脇へ追いやられたような道を辿った「奈良県」でありましたが、このことは良い意味での「奈良県」を形成する基礎ともなりました。
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門前町を基本とする人々の 風土・生活は歴史の歩みに歩を習いながらも その軸を失わず、昼夜の違いが無いといわれる現代にあっても 朝に目を覚まし努め、夕に戸を閉め夕餉を頂いて その日の感謝をして安らかに眠る・・
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温和で悠然、そして堅実といわれる奈良県民の性質を象徴するかのように、新しいものを取り入れながらも往古から伝わる生活の基軸を失わない文化は脈々とその地域性に根付いているのです。
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それは、昭和の時代から隆盛し、近年 富に言われる「観光事業」の推進についても影響を与えており、「観光」に対して様々な取り組みを進めながらも その基軸の多くの部分が地元の生活や寺社の保全維持にあるようで、事業収益を前面に見据えたシステマティックな「観光事業」の推進とは多少 趣を異にします。
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これには “奈良時代” と “平安時代” の時代差も関わっているようで、時代が若くその考証性に多くの資料が残っており、抱える寺社を効率的にアピール出来る京都に比べ、より想像の域が多くを占める奈良の古跡は明文化しにくいという側面をもっています。

 

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しかし、考証性が難しいということは それだけ広大な想像の可能性を秘めているということで、それこそ歴史のロマンに溢れているということなりますね。
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言い換えれば 誰でもが わかりやすくスマートに歴史を味わい楽しめる京都に対して、古代に連なる歴史にあれこれと自由に想いを馳せながら散策にいそしむというのが奈良観光の楽しみ方といえるでしょうか。
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田の畦道に何気なく佇む石、何も無いと思っていた山路に息づく祠のような古跡、これらは観光資源というよりは 奈良に住まう人々の常に生活の傍らにあったものなのです。
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「歴史に彩られる」と言いますが、その歩んできた歴史の風土が ごく自然に生活に根付いている「奈良県」、 歴史ロマンにどっぷりと身を浸し 緩やかな時を過ごしながら旅を楽しみたい方には まさに最適の土地柄と言えるのではないでしょうか。

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聖徳太子 は当時まだ新興の類だった仏教を政に取り入れ、その慈愛的精神を広めましたが、同時に従来から人々の信心の礎でもあった神道への崇敬をも欠かさなかったと伝えられています。
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物部氏亡き後 台頭してゆく蘇我氏を協調・抑制しながら善政を敷いたとも伝わります。
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それは 多大な知見と配慮、そして高度なバランス感覚と行動力をもってはじめて成し遂げられる事績でもあったのでしょう。
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新進の風を取り入れながらも 基軸となる自然の習わしは失わない、現代にも求められる理想のスタンスなのかもしれませんね。
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「かかし公園」の “聖徳太子 様” も今の世をどう見つめておられるのでしょう。

 

 

 

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