真白き食を求めて お米と雑穀のお話(後)− 富山県

「 米の文字を紐解くと八・十・ハの文字から成っている、この数字のごとく八十八回もの手間が掛かって米は作られ 今こうして食卓に上がっている、だから食べるものを粗末に扱ってはなりません、感謝して大切に頂きなさい 」
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近年では あまり耳にすることもなくなった訓話のひとつですが、多くの作業の機械化が進みシステマティックになった現代の農業においても 米作りの工程数は驚くほど多く、自然に則した栽培方法などをとった場合は八十八回を優に超えるそうです。
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「銀シャリ」と呼ばれるように素質良く生産され上手に炊けた ”白米” は正に至福の味、副食の美味とは異なる、安定した優しい美味しさに幸せを感じますね。
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しかし、いくら美味しいお米でも 手を伸ばせばいくらでも食べられるものであれば有り難みも薄れてきてしまいます。 飽食の時代といわれる現代、当然のように得られる ”食” と 幸せへの認識不足がそのことに拍車をかけているような気がしてなりません・・
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「銀シャリ」は戦後 極度に食糧事情が悪化し、その日の食事もままならない頃に生まれた言葉だと言われていますが、そういった社会背景を考えると正に隔世の感といったところでしょうか。

 

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徳川吉宗 によって断行された「享保の改革」によって一定の財政改善に成功した江戸幕府でしたが、どのような政策でも全てに良い結果を残せるわけではありません。
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農民の年貢負担は 四公六民から五公五民へと引き上げられ、それまでの倹約締め付けと相まって各地で一揆が頻発する事態となり圧迫感覆う世相となってしまいました。
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それまで何とか ”米” を食べていられた農民層の生活は逼迫し、窮状極まる地域も少なくなかったのです。
ここでも口に入る “米” の減少を補っていたのは “麦” や多様な “雑穀” でした。
特に小麦を利用して作るいわゆる “団子” 風の食物は古来より用いられ、わずかばかりの山菜や蔓を添えた汁に団子で 糊口をしのぐ食事で糊口をしのぐ状態であったようです。
それらの料理の多くは現在にも郷土料理(すいとん の類)として その姿を残しています。

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そして、その反動から続く徳川家重・家治の時代には田沼意次を首班とした “商業主義” に転じ、これもまた限定的な財政回復をもたらしたものの 前時代と反転するような政策、経済格差の拡大に世相は混乱、結果的にに耕作を放棄した地方の農民が都市部に流入する事態を招きました。
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地方農民の減少は当然のことに農村の荒廃、米の生産量の低下を招き、加えて起こった天明の飢饉などによって疲弊極まり国の基礎に揺らぎを生じます。

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これら世相のうねりの中には やはり「米」が重要な要因を果たしていました。
(以前 「お金は面白い?歴史から見る通貨の変遷」 でもお伝えしたように) 奈良時代の和同開珎以降、徐々に流通を進めていた貨幣制度は江戸時代に至り「三貨制」と呼ばれる金・銀・銭 による経済システムを確立しており、今で言う先物取引市場まで動いていましたが、これは主に商人、そして貨幣経済にまつわる町人や一部の武士階級における、言ってみれば市中経済においてのみ機能するものでした。
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幕府本体や各大名などの統治武士階級においての収入は未だ農民からの「米」による年貢であり、世に動く経済の背景には必ず「米」の信用価値がついてまわる、世界的に見ても珍しい「半・米本位制」とも言える状態だったのです。
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これは既に「金本位制」が全面的に定着していた諸外国に遅れをとっていたことになり、後の “信用貨幣” につながる概念も育たず、流通する貨幣は傾く世相に流され その金銀含有量を減らし、幕末・開国の頃には莫大な量の金銀海外流出を招いてしまいます。

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そもそも何故そこまで「米」にとらわれた体制が永く続いていたのか、その理由の説明を試みる説はいくつか有りますが・・

・ 独立国(藩)の連合体とも言える支配体制において、領地領民とそこから得る収穫が武士階級が得る唯一の収入であり、「地」「民」「米」があらゆる政策の算定基準であったから

・ 武家の概念として先祖から受け継いだ家格とそれに伴う所領からの収穫こそが本位の収益であり、貨幣とはあくまでそれを補うものでしかなく、どちらかと言えば穢れを伴うものだという感覚から

・「米」は元々「神饌」(しんせん・神への供物) であり 人が生きてゆくための基本かつ大切なものだから

など、挙げられています。
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実際には 統治者たる幕府が金本位制への全面改正に対して知識不足・認識不足、そして 封建体制に有りがちな役人気質から 問題を先送りにし続けていたのではとも思えますが、その背景には日本人の「米」に対する特別な感情が根強く有ったことが伺われないでしょうか。

 

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幕府の終焉、そして明治維新はまさに国のあり方を根底から変えた一大事でした。
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その経緯は混迷と紛争を伴う内乱でありましたが、265年間に渡った長閑の時を覆して行われた改革がなんとか順当に進められたのは、”藩” という壁に遮られた旧大名たちと違い、国民の大多数を占めた農民たちの価値観が共通していたからだとも言われています。
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明治初期の動乱期には国家体制の基軸をはじめとして、あらゆる事柄を決めてゆかなければなりませんが、”食” の基本である「米」に対する政策も随時進められてゆきました。
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今まで手を着けられていなかった荒地も開拓され、また 西洋からの技術も次々に導入され修得してゆく中で河川の改修、用水の整備などが進み農業生産の効率も飛躍的に向上し、富国強兵を目指す国策の下支えを担ったのです。

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大動の時が少しずつ治まり “新しき” 世が本格的に動き出す頃になると、ようやく国民の多くが「米」を中心とした食卓を囲めるようになりました。
地域差、貧富の差はそこかしこに残ってはいたものの、大多数の国民はその食生活に安定を得たのです。
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西洋料理も様々に移入され それはやがて庶民の食生活にも取り入れられてゆきましたが、多くは日本の食事スタイルに合わせた和洋折衷の「洋食」となりました。
「カレーライス」「オムライス」「カツ丼」など、今日ではごく普通のメニューとして親しまれている料理も明治から大正・昭和と続く食の歴史の中で西洋の料理を巧みに取り入れて生み出されたものです。
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そして、それらの多くはやはり「米」とのマッチングを念頭に作られたものばかり、いかに日本人の食が「米」に重きを置いているかが解りますね。

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千年の時を超えて連綿と紡がれた日本人の「米」への想いと悲願は ようやくその実りを結んだわけですが、明治以降、国家は数度の大戦の時へと突入してゆき、そして昭和20年敗戦をを迎えます。
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すべてのものは灰燼と化し、国はこれまでにない極度の食糧危機の時代を経験することになりました。
これ以降のお話は 「お米-身近な日本の”食”のお話をもういちど(後)」 をご一覧頂ければと思います。

 

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「銀シャリ」は 本来「銀舎利」と書き、「舎利」とは お釈迦様の遺骨のことを意味します。食糧難の当時は それだけ貴重で有り難いものだったのでしょう。
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現在、米は誰でも普通に買うことが出来るどころか、パック詰めでレンジで簡単に調理出来るものまで売られています。
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時代の進歩は食の安定と日本人の悲願であった米の自給を成し遂げましたが、それとともに その有り難みも失わせつつあります。
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豊かな時代であればこそ、今一度 先人の歩いた道のりを振り返ってみるべきなのかもしれません。

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