真白き食を求めて お米と雑穀のお話(中)− 富山県

日本の米どころ、米生産量を上位から見てみると 1位 新潟県、2位 北海道、3位 秋田県、以下 東北から北関東地域が並び、富山県は生産量においては十指に入っていません。
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しかし、米・稲を作付けするための種籾(種もみ)の生産量は国内の約6割を占め 全国1位であるそうで、つまりこれは日本で作られている米の大半が富山県を元とする米と言っても過言ではないシェアを誇っています。
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2017年に発表・発売されたユニークなネーミングの米「富富富(ふふふ)」は、コシヒカリを越える旨味を持ちながらコシヒカリの弱みであった 高気温時の品質低下やいもち病などの病害にも強いという特質を有しているそうです。
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種籾生産を主軸に置いたり優良種のさらなる改良に取り組んだり、富山県の米へのこだわりが伺えますね。
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同じくして、日本人の米への憧れ・こだわりは歴史を越えて紡がれ続けているのです。

 

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律令制も定着した飛鳥時代後半から奈良時代、日本は本格的な国家体制を構築し統治のための法整備を整えてゆきます。それにともない租税とその運用による制度を進め(いわゆる租庸調ですね)、それまで各豪族による半ば自治的運用の集合体から確固たる「国家」への脱却を推し進めていったのです。
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「租庸調」の中で “米” に関するものといえば 先ずは「租(そ)」、田地あたりの一定量(3~10%)の米を税として納めるもの、但しこの税制は建前的な側面が強く 施行直後の制度のままでは運用効率が良くなかったため、納めた米を種籾として半ば強制的に貸付けその利息税を徴収したり、官稲混合(かんとうこんごう)と呼ばれる官僚用地の収穫と一体化することにより都合のよい税運用に切り替えるなど、官制主体で度々にわたり改変されてゆきました。
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「庸(よう)」 古来からあった地方から都へ出仕して労役に服する慣習・制度に基づいて作られた税目で、出仕・労役の代わりに 米・塩・布などを納めたもので、一部を除き都に近い場所では実際に労役で賄っていた地域もあるようです。
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これらに地域特産品を税品目として納める「調(ちょう)」も併せて、民衆には多くの税制が掛かっていたため、前編でも述べましたように自分たちの食い扶持にまで「精米」の手間をかけている余裕はありませんでした。
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天候や災害に左右されながらも、人の糧であると同時に値千金、社会の価値基準として認識されていった「米」はこの後も歴史の中心に有り続けます。

 

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奈良時代も終盤、平安時代に移行する頃になると律令制も不全を呈するようになり、時代に合わせ細分化・実効的な制度へと置き換わってゆきますが、悠久の時は既に過ぎ去りつつあり、確立された国家は徐々に不安要素を膨らませ、公家の衰退、武家の台頭、そして戦乱が世を覆う時代を招いてしまいます。
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国家成立後、初めての大規模かつ全国的な内乱ともいえる「治承・寿永の乱」から始まり、鎌倉・南北朝、そして戦国時代を経て江戸幕府をもって国内が平定されるまで400年余、国内は常に戦乱の不安に脅かされていました。

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そして、ここでもやはり「米」は時代の動向に大きく関わっていたのです。
戦乱・戦闘 といえば時代劇の影響もあって 武将同士の果し合い、軍団のぶつかり合いといったイメージが大きいですが、武士であれ農民であれ、作戦時であれ休戦時であれ食料は絶対的に必要であるため、戦の遂行にはそのための食料確保が絶対条件のひとつでした。
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また 軍団とはいえその全員が純粋な戦闘用員というわけではなく、一説には構成の半数以上が旅団のため(運搬や道作りなど下支え的な役割り)の人員だったとも言われています。
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人員の大多数を占める下層構成員のほとんどは農民でもあったため、農民の戦死者が多すぎたり 戦が長期に渡り過ぎると、次の年の領内生産高に大きな影響を与えるため 農民と農地に対しては保護するとまではいかないまでも、一定の配慮は常に必要だったわけです。
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只、これは逆の立場から見ると農業力を破壊すれば相手国(敵)の国力を削ぐことにもつながるため戦においては往々にして農民や農地、穀物倉への殺戮や略奪、焼き払いも行われました。 どちらにせよ災禍の時代であったと言えますね。
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農業技術は徐々に発達し、この頃には米の刈り取りの後 水を抜いた田地で麦を作付けする「二毛作」も行われるようになっていました。 各地の領主たちは国力増強のため灌漑や河川の改修、新田開発などに力を注ぎましたが、頻発する戦のために作付けが寸断されることも多く、安定的な「米」の供給は中々に実現しません。
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ここでも「麦」や「粟」そして「稗」などが 不足する「米」を補う形で用いられました。
食味に劣っても栄養素は高く人々の糊口をしのぐものとして必須の穀物だったのです。

 

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慶長8年(1603年)徳川家康が江戸に幕府を開き その12年後に豊臣政権が滅亡した後は国土を席巻するような戦は鳴りを潜め 時代はようやく安定の時を迎えます。
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歴代の国主がそうであったように 家康も国家安定のため その基礎として米作りを中心とした農業発展のための政策を推し進めたため、世は豊かになり農業技術もこの時代に飛躍的に発展しました。 また、時代の余裕は米とともに地域ごとの地勢にあった生産品目の開発にも寄与し、この時代に各地多くの特産品が生まれています。
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地方においては まだまだ「玄米」や「混合米」が主ででしたが、江戸市中にあっては一般庶民であっても精白された「白米」を口にしており、それが “江戸っ子” の自慢でもありましたが、それは同時に「麦」をはじめとする「雑穀」から得ていたビタミンB1の不足を招くことにもつながり「脚気」は「江戸患い」などと言われる皮肉な結果を生むことにもなりました。

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江戸中期以降、頻発した飢饉や佐渡金山の産出量衰退とともに江戸期の繁栄にも影が差し、幕府財政の傾きも顕著になってきます。
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これを立て直すために ”米将軍” 徳川吉宗 によって行われた「享保の改革」は国政の刷新、倹約の発布、そして新田開発による財政再建が目的であり、この改革は一定の成果を収めましたが、結果的に農民に対する「年貢」の負担割合を大きく引き上げることにもなりました。


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このあたりの詳細は以前の記事「税の今昔? ・・・今も昔も・・今も昔もなお話」を 宜しければご一読頂くとして・・
誠に恐縮ながら次編 最終回へと続かせて頂きます・・。

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