伝えられるところ・・。 イナバナ.コムで時折ご案内する民話や故事伝承、また人物伝や歴史物語の一端に、よく付記させていただく言葉が “史実はともあれ” “史実はさておき”というもの。
いわゆる民話や昔話の類は言うに及ばず、人の口や筆による伝承というものは時の流れとともに 数多の脚色、時に間違いや誤解に晒されている可能性から逃れられないことをお断りしています。 言ってしまえば一種の “逃げ” ですね (^_^;)。
本当の本当に その時その場で起こった出来事、当事者たちの心のあり様などは、結局のところ当人たち以外 知る由もなし ということでしょう。 まぁだからこそ歴史伝承は面白いのかもしれませんが・・。
逃げどころか 盛大な “予防線” のごとき前振りを置きましたが、何で? というと、本日ご案内する話題も、実在の方のお話ながら多分に脚色が含まれる、加えて曖昧な情報を精査しきれていない部分があるからです。 どうか そこのところを汲んでいただきますよう・・。 いつの記事でも似たようなもの? それはさておき・・。
“朝草に刈り込められて きりぎりす われもなくかや 俺もなくなり”
愛知県 渥美半島の先端、明媚で知られる伊良湖出身の歌人『糟屋磯丸(かすやいそまる)』が詠んだ歌として知られています。※(文最後に注釈)
早い朝の眩い陽射しのもと、刈り込んだ草に身動きが取れないでいる、小さな虫と自らの身を苦笑しているかのような牧歌的、そして自然に溢れたイメージが伝わってくる歌ではないでしょうか。
『糟屋磯丸』(江戸時代中期〜後期) 一般的にはともかく、その世界では名の通った歌人であり その生涯に数万首の歌を残した巨星でもありますが、意外や歌の道を志したのは30歳代以降。 おまけにその頃まで読み書きが全くできず(当時としては一般的)、詠んだ歌を書き残しておくために文字を習ったとされ、それ故に “無筆の歌人” とも呼ばれたそうです。
磯丸の名も “歌号” であり、他に貞良、一之丞などの名もありますが、元々は一介の漁師の子であったため本名は詳らかでありません。 長男ではあったものの家は貧しく、母も臥せりがちであったため苦労されたようです。
只、彼が詠み残した歌はどれも 難しい言葉回しに囚われず、その想うところをごく自然に吐き出したような流れで、聞く人を選ばない優しく朗らかでウイットに富んだ歌風でありました。
それ故に多くの人から愛され親しまれた歌人でもありましたが、その名声が高まるに連れ、彼の周りと残す歌に奇妙な変化が訪れます。 では、その時のお話をば・・。
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変節 踏み越えて些かなりとも世に知れるところとなった磯丸。
やがて その名は京の芝山大納言持豊の知遇を受けるものにまでなり、磯丸の歌に惚れ込んだ大納言は、何と一日限りとはいえ正五位の位階を与え、宮中において新嘗祭の末席に磯丸を招くほどであったといいます。
まことに栄誉極まる出来事でありましたが、磯丸本人はそのようなことより歌を詠んでは、この時代の文人・歌人の多くがそうであったように津々浦々への旅を好んだようです。
只、当時の著名俳人の旅が門下拡大の側面を持っていたのに対し、磯丸の旅はどちらかといえば自由気ままな一人旅といった感じ・・。食い扶持さえあれば それで良いという人柄が旅にも現れていたのかもしれません。
そんな磯丸、天保二年 冬のある日のこと。
旅先の宿でひとつの不思議な夢を見たそうです・・。
夢の中に現れた白髭の老人は心痛な面持ちで磯丸にこう告げました。
「今、伊良湖の村は大きな火災に見舞われておる・・」
「火を鎮めようと わしも手を差し伸べたが そのうち不浄の水が掛けられるようになったので わしは山に引き返した・・」
不穏な夢にハッと目を覚ました磯丸、取って返すように故郷 伊良湖へと戻ってみると・・、はたして夢で聞いたとおり伊良湖の村の家々はあらかた焼け落ちてしまっていました。 ただ一軒、磯丸の実家だけを残して・・。
夢のお告げを届けてくれたのは、伊良湖の明神さまではなかっただろうか・・?
こんなことがあってからというもの、”磯丸どんは伊良湖明神の縁者ではないか” という噂が村で立つようになり、それはやがて “磯丸どんに歌を詠んでもらうと願い事が叶う” ・・という話となって広く伝わるところとなっていきました。
ある時は身位の高い婦人に招かれ、予てから気に障っていた “八重歯を落とす歌” を所望され次の歌を詠んだ。
“願わくば 我が歯にさわる八重の歯を 言葉の風よ 吹き落とせかし”
また ある時は “渋柿を甘く変える歌” を問われ
“柿むすぶ言葉の花に今年より 渋気をとりて甘くなりけん” と歌った。
これ以降も あちらこちらから声がかかり・・、
“麦飯が好きになる歌” “盗難除けの歌” “夫婦喧嘩をせずにすむ歌” “鼠除けの歌”・・挙げ句は “物覚えが良くなる歌” “口の中の腫れが引く歌” “霜焼けの治る歌” 等々、 本当にそんな歌を詠んでほしがる人が居たのか? と思えそうな珍妙な依頼が続々と寄せられ、そしてそれらひとつひとつに詠んで応えていったそうです・・。
設楽郡作手村(現在の新城市)に彦次郎という人がいて、土地に井戸を掘ったものの濁った水しか湧いて来ず困ったので、人伝に磯丸を招き “きれいな水が湧くよう” 歌を頼んだそうで・・。 すると磯丸、一目井戸を見るなり詠んだ歌というのが・・。
“これやこの 行くも帰るも別れては 知るも知らぬも逢坂の関・・”
これには彦次郎も驚いた。この歌は磯丸ならぬ平安時代の歌人 “蝉丸” による著名な歌であったから・・。
「いやいや、それは百人一首の歌ではありませんか。私は貴方に歌を詠んでいただきたいのです・・。」彦次郎がそういうと磯丸・・。
「この歌には濁りがない・・。だから、これを井戸の傍に立てておくがよろしかろう。きっと水は澄みます・・。」
妙なことを言うものだと訝しがりながらも彦次郎と家人、言われたとおりに “蝉丸の歌” を書いた立て札を立てておくと、程なくして井戸の水は澄み渡り作手村きっての名水となったと伝わります・・。
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平明・晴朗な歌を詠む自由な歌人から いつの間にか神格化の様相を呈し、挙げ句、妙な祈祷師の如きライフワークを全うしたかのように感じられるお話でしたが、人々からの願いに対し磯丸が詠んだ歌というのは「まじない歌」ともいわれるもので、当時の社会では大変に喜ばれ珍重されたものであったといわれます。
先日 “昭和テロップ” の方で「疳の虫」(虫切り・虫封じ)という記事を上げたのですが、言ってみれば これと同じようなもので実際の効果はともかく、精神的な安定や納得につながる一定の効能があったのでしょう。
今回お届けしたお話の何処から何処までが史実か否かは不明瞭ですが、糟谷磯丸という歌人が実在・活躍して独特の名歌を幾多に残し、そして数多の人々から敬愛されたのは事実であったと思われます。
「まじない歌」という特異なジャンルで よく知られるという一風変わった足跡でもありましたが・・、言うなれば彼は 偉大な歌人というより “愛された歌人” と呼ぶのに相応しい人であったのかもしれません。
最後に最晩年に詠んだという歌を一遍
“かしこしな天地までも動く蝶 歌でやわらぐ国は我が国”
名歌・名句を刻んだ歌碑・・。磯丸になる歌碑は全国に36ヶ所を数え、伊良湖を擁する田原市にはその内10ヶ所があるそうで・・。 渥美半島の先端、伊良湖岬灯台を巡る伊良湖岬遊歩道には彼の彫像が佇み、今日も穏やかに三河の海を見続けています・・。
※ 注「朝草に・・」この歌に関しては、糟谷磯丸の知人でもあった “林織江” による作である との情報も見られます。