その夜は外出禁止!伊豆大島編 – 東京都

1971年といいますから大阪万博の翌年、昭和46年のこと・・。
毎日新聞 7月17日版に掲載された とても奇妙な記事がありました。この年の4月、ニュージーランド沖合で操業していたマグロ延縄漁船 “第28金比羅丸” が、その延縄(はえなわ)を引き上げようとしたところ突然の断線に見舞われました。

画像はイメージです。

やむを得ず近場の浮きブイを探して残りの縄を引き上げようと船を寄せたところ、そのブイに絡むように大木の根のような物体が浮かんでいるではありませんか。

何が絡まったのだろう?と船員たちが集まり見ているその前で、突如、物体はその身を翻し波間に立ち上がったのだそうです。 その異様な姿は水面から上だけで1.5メートル程の身の丈、海中は不明ながら長い尾が有るようにも見えたといいます。さらにその頭部には直径15センチ程の目と思しきものが付いており、鼻は潰れ口は確認できませんでした。

あまりの異様さに “化け物だ!” と船員たちは大騒ぎとなり、銛(モリ)で突き殺そうと用意をしている内に その物体はまた海の底深く消えていったのだそうです・・。

 

よくあるオカルト話のひとつ*で、これを真実として捉える人は限られた数だとは思いますが、仮にこれが事実であったとすれば、この怪奇な存在はいわゆるUMA(未確認動物)であり古の時代にあって “海坊主” などと呼ばれ恐れられたものといえるでしょう。 * 毎日新聞掲載というのも現時点未確認。

見間違いや子供の戯言のように捉えられがちなUMAやオカルト話ですが、この6年後、同じニュージーランド海域で引き上げられ世界的な話題にまでなった “ニューネッシー” など、今も未解決な事象も数しれず、世界はまだまだ人智の至らぬ部分を秘めているのかもしれません。

クリックで画像表示(少し気持ち悪いので注意)

ともあれ、無限の広さと茫漠たる深みを持つ海は、人にとって恵みの母であるとともに、”船底一枚隔ててそこは地獄” の言葉通り、あの世に通ずる驚異の世界でもあったのでしょう。 特に海に糧を求めて生きる島や沿岸地にあっては永年の間にそこで失われた命も多く、この世に思いを残した魂は時に怨霊や魔物ともなって海辺の民の心を惑わしたのでしょうか・・。

 

前回、伊豆諸島を創造した神が その七島を巡り神津島に上陸することを祭祀とした「二十五日様」をお伝えしましたが、その神津島を除いた島々、主に伊豆大島を中心とした他の島にも、二十五日様に似通いながらも本質的なところでストーリーを異にするお話が残っていますので、本日はそれをご紹介したいと思います。

伊豆七島の中で最も大きく また本土寄りである “伊豆大島”。 100~200年単位で壮大な噴火を見せる “御神火様・三原山” で知られ、ジオパークにも認定された自然豊かな観光地としても人気の島です。 その島史の中には以前お送りした “鎮西八郎 / 源為朝” などにも関わりを持つなど興味深い歴史を刻んできました。

三原山

伊豆大島の北東部、大島を円周する “大島一周道路” からも程近い林間に、それは粛然とした佇まいの鳥居が一基静かに建っています。 宮の名は「波治加麻神社(はじかまじんじゃ)」、土地の古き地名 “波治ケ間” のとおり “三島大明神” と “波浮比咩(はぶのひめ)命” との間に生まれた二子の弟 “波治命” を祭神として戴いているそうで・・。(長子・阿治古命は大島大宮神社の祭神)

派手やかな賑わいもなく閑古な社殿・境内ながらも、平安時代に著された “延喜式神名帳” にもその名を残す由緒深き社です。

その波治加麻神社の杜の一角、隆々とした幹枝をもつ大木の木陰に佇む一対の小さな祠。 島ではこの祠を「日忌様(ひいみさま)」と呼んで手を合わせ、そして畏怖の念をもって接しています。 ”日忌”(ひいみ)・・、名のとおり “忌の日” であり、それは旧暦1月24日25日においては厳しく外出・享楽を控え、家内で静かに過ごすこと。やむを得ず外出する時は決して誰とも遭わず 何より海の方を見てはいけない・・。

前回、ご案内した「二十五日様」とほぼ同内容の風習に思えますね・・。
只、伊豆大島をはじめ 多くの島に言い伝えられる伝承は、神津島で聞いた “神の来訪” とは些か趣きを異にします。かなり不気味な内容となっています。東京都教育委員会ホームページに載せられている記事からの拝借となりますが、その一遍をお伝えしましょう・・。

波治加麻神社

~ 昔、25人の青年達が泉津にいた悪代官を殺し、この神社の境内にあった一番大きな杉の木を伐倒して作った丸木舟で脱島した。その後、利島、新島、神津島に辿り着いたが、どの島も後難を恐れたことから匿ってもらう事が出来ず、一行はそのまま行方不明となった。その霊が毎年1月24日の晩に波治加麻神社に帰ってくるという。

24日の晩に家々の神棚に25個の餅、海から採取した小石とトベラ、ノビルを供えた。もしこの餅が鼠害にあえば、その家に不幸災難が見舞うとされた。当日の夜は一切外出せず海を見ず、静粛に過ごしたという。 ~ 東京都教育委員会 “日忌様の祠” より

 

海坊主やニューネッシーの話より余程リアリティに富み、そして醜怪な話に感じられますね。何故なら “そういったことなら実際にあったかもしれない” と思えるような内容だからでしょう。 また、その事件が起こった年月が寛永5年、苛政を振るって青年たちに殺された代官の名が “豊島忠松” と、具体的な詳細が挙げられていることが それに輪をかけています。

熾烈な年貢の取り立てや使役を続ける領主、村の苦しみを思えばこそ決起した若者たち。しかし領主殺しともなれば それを匿えば連座処刑の可能性高く、目先の難を逃れたいばかりに若者たちを見殺しにした人々の悔恨と祟への恐怖・・。誠に一遍の怪談物語となっています。 海から還ってくる霊こそが “日忌様” であり、これを祀ることが二十四・二十五日の風習なのですが 島によって伝わるところには多少の差異があり、これらを “海難法師” 呼んだり、またその正体が “若者たちの霊” を指す場合と “殺された悪代官の霊” を呼ぶ場合に分かれたりもするのだとか・・。

伊豆七島に伝わる「二十五日様」、前編の神津島も含めて この伝承は古に起こった事件・怪奇譚こそがその根底にあるのでしょうか・・・・?

申し訳ありません、前後編で終わるつもりが3編にもつれ込んでしまいました。(^_^;)
次回、もう少し考察を進めて最終話とさせていただきます。 m(__)m

予定しておりました「お年玉付アンケート2024」は24日の夜21時から開催させていただきたいと思います。お楽しみに・・。

『東京島の旅 伊豆諸島・小笠原諸島 (エルマガMOOK) ムック』

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