その夜は外出禁止!伊豆の島々 – 東京都

「よって其の方らに遠島申し付ける !!」 テレビ時代劇など お白洲・お裁きの場で見られるお奉行様の判決言い渡し。遠山の金さん や 大岡越前なんて昭和時代の番組が思い出されますね。 とはいっても、あくまでも現代ドラマの上での演出なので史実のお裁きとは かなり隔たりが有るようですが・・。

遠島・・いわゆる流刑は死罪に次ぐ重罰であり、一説に古墳時代には既に処されていた記録が残っているそうで・・。元々は貴族や身分の高い者が罪に問われた際に(いわば罪一等を減ずる形で)出されていましたが、古代における完全放逐は事実上の死罪と同義であったともいわれています。(流刑地に着くまでに野盗に襲われたり暗殺されたり・・)

少なからず政争の具ともされたことから、公然に死罪とし難い場合などに用いられることも多かったようです。よって一時的な敵対者排斥を狙った案件などでは先々の帰京なども織り込んで、経路や流刑先での特別な保護措置も取られたといいますから・・ややこしい話ですね・

 

一般の咎人を対象に流罪が整備されたのは やはり江戸時代のこと。新潟県の佐渡島や今回お送りしている伊豆の八丈島などが有名ですが、当時 佐渡島に送られたのは咎人ではなく “無宿渡世” の者、要するに人別帳(戸籍)に外れた不逞の者を強制的に徴発し、金山作業の下支えをする “水替人足” として働かせるため送り込んでいました。(衣食住は保証・基本往路のみ)

一方、八丈島に送られたのは咎人たちでしたが、こちらは重労働に服する役はなく完全に放置・・(ちょっと時代劇から湧くイメージと異なりますね)

島に着くと担当の役人から ひととおりの決まり事を伝えられ・・後は “自分で何とかして生きてゆけ” と身一つで放り出されるそうです。(要するにその苦しみが刑罰ということでしょうか) ヤケになって暴れても待っているのは餓死だけなので、里の外れに雨露しのぐ小屋でも作り、里の人たちの手伝いを請け負って食いつないだりする他ありませんでした。基本的に大人しく島の暮らしに溶け込む人が多かったようです・・。 * こういう人もいました「近藤富蔵」

悪いことに天候不順など飢饉に見舞われた場合、真っ先に死んでいくのはこうした流刑者だったので、これが結果的に人口調節となり また新たな咎人を送り込む目安となったともいわれています・・。

いうなれば、”遠島・島送り” というのは “島そのもの” も含めて、本土・体制側にとって “安価で都合の良い労働力” であったり “厄介払いの押し付け先” でもあったといえるでしょうか。

 

体制による 離島への傲慢な姿勢というのは、先にも述べたように古の時代から永年に渡って状態化していました。こうした流刑地としての使用も明治41年に刑法が改正されるまで続けられていたといわれます。

土地に限りがあり天候の影響も被りやすかった離島・島々は、概して生産力も低く中央支配のなすがままにならざるを得ず、不遇の時代が長く続きました。

前編「日忌様」の話で苛政を振るい、島の若者たちに謀殺されたと伝わる島代官 “豊島忠松”。 豊島氏は元々武蔵国豊嶋郡(現在の東京の一部)に発祥をもつ氏族ですが、江戸時代の初期にその一流が “八丈島(前編伝承・伊豆大島ではなく)” の代官として任官していたともいわれ、この伝承が荒唐無稽な作り話ともいえない素地をもっていたようにも思えますね。

実際問題として武家とはいえ、絶対的な階級社会の中では優劣の差も大きく、島への任官を僻地にとばされたと感じ、その鬱憤を領民に向けて晴らそうとする不届き者がいたとしても奇とするに足りぬことでありましょう。 ”日忌伝承” は それが史実か否かはともかく “有っても不思議でない” 非業の記憶なのです・・。

 

ならば、神津島編でお伝えした「二十五日様」も この「日忌伝承」が転化したものなのでしょうか・・?

ここから先は多く私見交えての話となりますが、答えを先に申すならば 各々別個のものであり、そして相互に影響を与え合いながら今日に続いているのではないかと思えます・・。

先ず「二十五日様」は神様来島・ご帰還のお話、神代に連なる話なので その発祥がいつのものなのかなど分かりませんが、そもそも神津島は伊豆諸島創始譚に関わるところが深く、二十五日様伝承以外にも趣深い話が残っています。

そのひとつに “水配りの神話” があり(海で囲まれた島では貴重な)”水の分配” を話し合うため、神々がこの島に集まり会談を行ったというもの。古名 “神集島” の由来の一端でもありますね。 これら諸島創始に掛かる話は「三宅記」という伊豆地方一円の寺社由緒をまとめた縁起書なのですが、この縁起書は鎌倉時代に残されたものだそうです。

また、初編 “神津島編” でもお伝えしたように「二十五日様」の内容は、出雲大社に掛かる神事「みねんげさん・身逃の神事」をはじめとして各地に残る “物忌の神事” に似通った部分も少なくなく、仮に外来文化の影響であったとしても基本的には平安時代以前にまで、その始めは遡ることができるのではないでしょうか・・。

 

翻って「日忌様」の起こりとなった “代官謀殺事件” に関しても、上述のとおり実際に起こった反乱事件が元となっている可能性は拭えません。 ”一揆” として世に知られるがごとく圧政に喘ぐ領民の反乱事件は、諸島に限らず全国どこにでも有ったのです。まして古くから横暴な扱いに晒されてきた島々では尚のことでもあったでしょう。

そして起こった悲劇は、その苦しみと罪悪感に発する恐怖から いつしか怨霊話となり、日忌様、海難法師などの名と絡み祟りを含んだ帰島伝説として結晶していきます。

島に訪れる異界の者、こちらからは見えねど抗えぬ脅威をもった恐れ多き存在として、本来、神話であった “二十五日様” と共振・融合していったというところが実状ではないでしょうか。

いうなれば、神津島の神事はより原初のかたち。日忌様伝承はそれと混じり合いながら紡がれた人々の記憶・・。

人間の思惟とは強烈な記憶に支配されながらも折々に曖昧で、それが人伝に掛かる度にさらに不確実性を増していき、様々な要素を取り込み結び付け合いながら、また新たな類承を生み出してゆくもの・・。 数十年、数百年に渡って残る言い伝えは どこかに確かな事実を含みながらも、茫漠とした影をまといながら語り継がれていくものなのでしょう・・。

それこそが民間伝承の本質であり、人が生きてきた証であるとも思えるのです・・。

『東京島の旅 伊豆諸島・小笠原諸島 (エルマガMOOK) ムック』

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