薄荷(ハッカ)/ ペパーミントの香り、皆さまはお好きでしょうか?
私は?というと・・元々は苦手な方でした。でも現在では さっぱりというか あの爽快・清涼感は割と好みです。 “ハッカ飴” とかになってしまうとちょっと苦手方向ですが、子供の頃 縁日に行くと買ってもらった “ハッカパイプ(粉菓子)” はお気に入りでした。(縁日のF104J)
お好みかどうかはともかく、薄荷にはその独特の芳香と清涼感による香りや風味付けに使われる他、抽出される主な成分メントールによる鎮痛・消炎・抗菌作用、メントフランによる去痰作用、また リモネンによるリラックス効果など、多彩な薬効があることでも知られていますね。
それら薬効の一部を利用して作られ、昭和時代に一世を風靡した一般用医薬品のひとつに『メンソレータム』がありました。 湿疹やあせも・アカギレ、虫刺されや切り傷など、軽微な皮膚疾患や怪我を手軽に鎮静させる軟膏薬、多くの家庭に常備薬として置かれていました。
厚さ13mm 直径5cm足らずの円盤状の缶に描かれた可愛い絵柄「リトルナース」を憶えておいでの方も多いでしょう。
この “小さな看護婦さん” を日本中に知らしめたのは、ひとりの若きアメリカ人でした。そして彼は 単に薬を拡販しただけでなく事業・建築・教育と、日本における数多の分野に足跡を残し、83年の生涯を滋賀県近江八幡市に全うした人でもあったのです・・。
滋賀県近江八幡市の中央、池田町の一角に古いレンガ塀が建ち並ぶ “池田町洋館街(いけだまちようかんがい)” があります。
市街地にあっては閑静な道、旧館も現存する通りは100m程のささやかな史跡ですが、この場所から当時の八幡町、滋賀県、そして日本全国へ、その人の想いと行動は広がっていきました。
明治38年2月2日、八幡に到着した青年の名は “ウィリアム・メレル・ヴォーリズ” このとき若干25歳。滋賀県立商業学校の英語教師として赴任してきたアメリカ人プロテスタントでした。 ※プロテスタント:キリスト教新教派の信徒
端正な顔立ちに加え外交的で鷹揚な性分と振る舞いは生徒たちからも慕われ人気の先生でありましたが、ひとつ問題となったことがありました。 彼は教師であるとともにプロテスタントの信徒であり伝導の志も持っていたため、授業や日頃の生活の端々にキリスト教徒としての行動が滲み出すのです。
まだ仏教色の強かった当時の地域社会において、外来宗教の影響は手放しで容認できるものでもなく、ヴォーリズは結果的に学校を去らねばならなくなってしまったそうで・・。
しかし、当地の風土が気に入ったのか、それとも伝導の挫折を “試練” とでも受け取ったのか 彼は八幡の地を離れず、却って制限のある職から離れたことで “バイブルクラス(聖書を基にした勉強会)” を続け、その傍ら、かねてよりの資質であった建築業も興していきます。
縁のあった京都のキリスト教会館新築工事に関わり、落成後 その一室を借りて建築事務所を開業。 明治43年に一旦帰国し有志の建築家 “レスター・チェーピン” を伴い再び来日、教職時代の教え子 “吉田悦蔵” を加えた三人で “ヴォーリズ合名会社” を設立、以後、近江療養院(現ヴォーリズ記念病院)、旧八幡郵便局、アンドリュース邸、ウォーターハウス邸などの建築設計を手掛けました。
ヴォーリズによる設計は当時のアメリカ建築様式を踏襲しながらも、日本の気候や生活風土に合わせ様々な様式や工夫を凝らしたものといわれています。 柔軟な発想で実用性に優れた建築は次第に評価されて、後には同志社大学アーモスト館や大丸心斎橋店本店(2015年まで)、そして かつての勤め先 滋賀県立八幡商業高等学校の新築工事にもつながったそうです。
学生時代から建築家を志していたヴォーリズ、これらの時点でプロの設計者ではなかったのですが(そのためもあってプロの建築家を招聘していた)、依頼者の望みを合理的に叶える能力は非常に高く生涯に手掛けた案件は1600にも達し、その多くが現存の建築といいますから驚きですね・・。 *建築作品の数々はコチラから(近江八幡 観光物産協会)
あまりに働き過ぎたのか それとも子供の頃からの持病悪化か、大正時代に入った頃、ヴォーリズは身体を壊して一時アメリカに帰り療養生活を送っています。 翌年 また来日するのですが、この時はなんと両親を伴っての渡航となりました。異国で懸命に生きる姿に打たれたのか、息子とともに日本に骨を埋める覚悟での訪日であったといいます。(後に実際、ご両親とも近江八幡市で天寿を全うされました)
そしてまた、この時 持ち帰ったのはご両親だけではありませんでした。
3年前に一時帰国していたとき親交を結んでいたアメリカ・メンソレータム社の創業者アルバート・A・ハイドは、成功者であるとともに自らも敬虔なクリスチャンでありました。 彼の目に、神の信条に沿って熱心に働くヴォーリズは敬服に値したのでしょう。日本におけるメンソレータム販売の権利を約束したのです。
後の大正9年(1920年)製造・販売権を正式取得したヴォーリズは、それまでのヴォーリズ合名会社を清算、「ヴォーリズ建築事務所」と「近江セールズ株式会社」を新たに立ち上げます。 この「近江セールズ株式会社」がメンソレータムの輸入販売を一手に手掛け、それは瞬く間に人気の商品となって大きな利益を生むことになっていきました・・。
只、これでヴォーリズ自身が潤うことは少なく、利益の大半は事業における再投資と伝導のための拠出、そして地元 近江八幡での医療・教育施設の充実へと注がれたのです。
神の愛に基づいた伝導を礎に、清貧ながらも柔軟な機知と不屈の努力で励んできたヴォーリズでしたが、この頃と前後して、彼の人生に決定的な転機をもたらす出来事も起こっていました。
大正7年、設計の相談を受けていた依頼者宅で、彼はひとりの聡明な女性と出会うことになったのです・・。