聖心の道はミントの香のごとく(中)- 滋賀県

「近江泥棒伊勢乞食」という古い言葉がありました。 冒頭から感心しない文言で恐縮ですが、この言葉が口性に上ったのが江戸時代、商売上手の “近江商人” と 倹約指向であった “伊勢商人” を、やっかみ半分で揶揄した言い方でありました。

まだ全国人口の大半が農民もしくは町人、それも現在ほど経済的に豊かでない時代の人々ですから、大金を動かす商人たちを妬ましく感じたのでしょうが・・。特に当時の機能的首都であり気風の良さを誇りにしていた江戸の人々から見れば、一文のお金にもこだわる地方商人のあり様は気に障るところだったのかもしれませんね・・w。

近江国で商業が発達した背景には、いうまでもなく信長や秀吉時代から、その水利や街道交通の要衝であった地勢による “自由市場” の発展がありました。安土城下、長浜城下ともに多くの人々は経済を回すことに関わっていたのです。

さらに 近江商人のモットーは “三方よし” といわれるもの。 “売り手” と “買い手” が満足いくのは当然のこと、その地盤となる “世間・社会” に還元できて はじめて継続的な商売が可能となる・・という考え方。300年以上前に 既に現代に通じる経営哲学ができていたということなのでしょう。

ウィリアム・メレル・ヴォーリズは 本質的にキリスト教伝導者であり商売人ではありませんでしたが、様々な障害がありながらも やがてそれらを乗り越えて事業を成功させ、そして社会に大きく還元してゆく姿は、どこか近江商人のモットーに一脈通じるようにも思えるのです。

そして、そんな彼を生涯にわたって支え続ける人との出会いが訪れます・・。

 

建築業も順調に進む中の大正7年(1918年)ヴォーリズは大阪加島屋(後の大同生命の源流)の本家、“廣岡家” の私邸改築工事に携わっていました。 例によって依頼主の意向を丹念に聞き取り最適な提案を模索するヴォーリズ。元来の近江商人でもないに関わらず “三方よし” の理念を思わせる細やかなヒアリングです。

通常、こうした打ち合わせにはヴォーリズ側の人員が仲立ちをするのですが、このときヴォーリズと施主 廣岡恵三との間に入って執り成しをしたのが恵三の妹 “一柳満喜子(ひとつやなぎ まきこ)” でした。 (✼ 恵三は華族であった一柳家の次男、廣岡家へ婿入り)

当時としてはゆっくりめ35歳独身の満喜子でありましたが、それはアメリカ留学やアメリカ国内での活動が長かったゆえのこと。それだけに才智に長け広い展望をもった女性だったといえるでしょう。

ヴォーリズといえば38歳、こちらも聖心の理念に燃えて一途に歩んできたような朴訥な男、未だ独り身でしたが、打ち合わせを通して満喜子と接するうちに今までにない強い想いを抱くようになりました。 生きてゆく上での価値観、社会に対して開けた視点などシンパシーを感じ、やがてそれは愛情へと変わっていったようです。

ヴォーリズはその気持ちの全てを一通の手紙にしたため満喜子に手渡しました。

 

突然のことに驚いた満喜子でしたが、こちらもヴォーリズと同じような想いを感じていたのでしょう。逡巡程なくして彼女もヴォーリズのプロポーズを受け入れる決心をしました。

しかし、二人の意思は固まったものの 事は簡単に運びません。当時の日本において外国人との縁組はまだまだ稀有なことでありましたし、さらに満喜子の家系 一柳家が華族であったため宮内庁の許可が必要でした。 貴族の娘と名もなきアメリカ男の結婚、周囲からもこれに難色を示す声が聞かれました。(一柳家自身は家長の一柳末徳(父)も含めて割と開けた思想であったそうです)

左から 廣岡恵三、廣岡浅子、一柳末徳

このとき 二人の結婚を後押ししたのが恵三の義母 “浅子” であったといいます。 浅子の尽力もあって事態は動き、意を固めた満喜子も臣籍を離れ平民戸籍となることで宮内庁の認可も降り、ここにようやく一組の新郎新婦が生まれることになりました。新聞にまで報じられたことから当時の世相が偲ばれますね。(この “広岡浅子” は日本初の女子大学創立に尽くした人であり、2015年NHK連続テレビ小説「あさが来た」の主人公 “白岡あさ” のモデルともなっています)

大正8年6月3日、二人はヴォーリズ自ら設計した明治学院大学のチャペルで結婚式を挙げ新たな船出に漕ぎ着けたのでした。

 

華族出身のお嬢さん・・、そのイメージに違い満喜子は献身的にヴォーリズを支え、家内のことはもとより彼の理念実現のために働きました。

地元、近江八幡にあって特に医療と教育の充実・発展を図り、業務で得た収益の多くをそれらに投じていたヴォーリズでしたが、留学時代から実践教育学に携わっていた満喜子は、特に地元教育分野において彼の事業を後押しする大きな力となったのです。

日本の教育制度は明治時代より “学制” として始まっており、細則を変えながらも進展してきましたが、それらはまだ “小学制以上” のものであり、また当時の世相・経済状況下にあってはそれさえままらなぬ家庭も少なくありませんでした。

後年、満喜子が語った言葉によれば「軒下でおやつを口にしながら何をするでもなく佇んでいるばかりの子供たちに、建設的な遊び場を作る必要を感じたのが そもそもの始まり・・」

この考えをもとにヴォーリズ社所有地の一部を開放して創設したのが「プレイグラウンド」と呼ばれる準託児施設。これが後に滋賀県から教育施設としての認可が降り「清友園幼稚園」となって、当県初等教育の一部を成す魁ともなりました。 正式な教育機関となり子供たちの数も増えれば それだけ費用も嵩むのですが、これにはヴォーリズのかつての理解者 アメリカ・メンソレータム社のアルバート・A・ハイド氏も多額の寄付を寄せています。

またヴォーリズと満喜子による教育施設は “幼児” にだけ向けられたものではなく、当時の農民たちを対象とした学校、女学校、図書館などにも広がっていました。 基礎的な学力の敷衍と情操教育に重きを置く平民学校としての展開に主眼が置かれたのでしょう。

“総体としての学力向上より、より個々人に寄り添った個性・才能を伸ばす” という教育方針は満喜子によるものであり、中等教育までも包括した「近江兄弟社学園」になった現在にまで受け継がれている基本思想なのだそうです・・。

画像 © W.M.ヴォーリズライブラリ

日本を愛するが故に 故国を離れて奮闘し、そして二人三脚で聖心の道を歩むヴォーリズと満喜子でしたが・・、人生には波乱と試練がつきまとうもの。

1937年(昭和12年)、中国 盧溝橋で起こった軍事衝突を発端に、日本は大陸侵出へ傾倒を深めていきます。時代は不穏の影をまといはじめ、それはヴォーリズにも無縁ではありませんでした・・。

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