聖心の道はミントの香のごとく(後)- 滋賀県

本年1月にポストした記事「アンダーウェアトピックス -無いから有るへ-」の中でご紹介したように、昭和初期は近代化の波が庶民層にまで及び、それまでにない生活資材や文化が広まり始めた時代でもありました。

一方、世界は大国の思惑と民族自決の理念との間に軋轢が渦巻き、国力の拡大に盲進する国々を枢軸に暗雲が世を覆う時を迎えてもいたのです・・。

1937年(昭和12年)盧溝橋事件を皮切りに始まった日中戦争、翌年にはさらに国の行く末に影を落とす “国家総動員法” が施行されます。議会の承認に一切縛られることなく経済・行政を統制可能なこの悪法は、終戦の昭和20年に至るまで国家・国民に未曾有の困窮と災禍をもたらすものでした。

大陸への侵出で世界との軋轢が増していた頃、ヴォーリズは帰国公演の場において日本の立場を説き、過度な反日感情の抑制に努めましたが彼の想いも虚しく日本は米国との間にも開戦を宣言。いよいよ世界は戦火の炎に包まれていきます。

 

 

在日のアメリカ人に対して本国から帰還勧告が出される中、それでも日本に留まり聖心の道を貫こうとするヴォーリズ。1941年 彼はついに “一柳米来留(ひとつやなぎ めれる)(妻 満喜子の実家姓に米国より来たりて留まるの意)” の名をもって日本に帰化まで果たしたのでした。

既に地元 近江八幡においては その人となりも知られたヴォーリズでしたが、しかし、官憲による外国人に対する抑圧は高まり、戦中 アメリカ国籍のままだった母を護るためにも家族で長野県に疎開、監視の下 抑留状態に近い生活を余儀なくされたといいます。

 

大都市でなく軍港も持たない滋賀県でさえ戦渦の外ではありませんでした。 点在する軍需工場や訓練場を狙って爆撃が繰り返されましたし、学校も被害を被りました。終戦の直前7月24日には大津市の東洋レーヨン工場(現 東レ)には、パンプキン爆弾も落とされ100名以上の被災者を出しています。(原爆と同仕様の外観を持つ投下試験用爆弾)

その愚行の時代がようやく終わりを告げ、静かな日々が戻ってきた後も人々の暮らしは窮乏を引き摺ることになるのですが、このとき、日本にはもう一つ大きな戦後処理の問題を抱えていました。昭和天皇の処遇についての先行きが不透明であったのです。

この問題解決に大きく関わったのが、一介の事業家・キリスト教徒であるはずのヴォーリズでした。

義兄の廣岡恵三などを通して経済界と多少のつながりがあった故でしょうか。 ある日ヴォーリズの元を一人の代理人が訪れます。彼の名は井川忠夫、クリスチャンとして旧知の友人であり、同時に戦前 内閣総理大臣を務めた近衛文麿の密使でもありました。国家再建のための礎、それを守るための助力を請われたのです。

 

日本の未来を左右する問題ながら旧友からの依頼、そして博愛を旨とする聖心の道に沿って依頼を承諾。すぐさま井川氏とともに東京へと出向き関係者と会見したそうです。

天皇の戦犯認定を念頭に進駐軍のトップとして着任しているマッカーサー元帥と、近衛文麿前首相(当時 東久邇宮内閣の副首相)との会談実現のために仲介工作を図る。 歴史的ともいえるこの事案にヴォーリズは、マッカーサーの若き側近であったバートレット少佐に知己を得たことから解決の糸口を見つけ出し、無事任務を全うします。

ヴォーリズ自身はこの働きについて、その日記に経緯としての記録のみを残しており私見少なしですが、中には “栄誉と責任” という文言も見られ当時の緊迫した状況が垣間見えますね。 ヴォーリズの進言が直接マッカーサーの判断を左右したわけではないかもしれませんが、近衛文麿との会談に大きな役割りを果たしたのも事実、 “天皇を守ったアメリカ人” といわれるのも当を得た呼ばれ方なのでしょう。

 

〜 建物の風格とは人間の人格と同じく、その外見よりもむしろ内容にある 〜(ヴォーリズ建築事務所作品集)

昭和12年に著された言葉そのままに戦後 建築業務を再開、前・中編でも触れた “近江セールズ株式会社→近江兄弟社” 内に建築部を置いて新しい時代の国作りに関わっていきます。

〜 最も重大な問題は育児室です。家を建てるのは現在の自分のためもありましょうが、大方は将来のため、子供のためにする。これが中心目的です 〜(吾家の設計)

如何なる案件に際して何を差し置いてでも、そこに住む人、その現在から将来に至る暮らし、地域への貢献・調和を最優先とする設計理念。 戦後の疲弊した日本、圧倒的な物資不足の中 苦労を重ねながらもヴォーリズは聖心の志を背景に、建築業務に関わり続けていきました。

母体となった “近江兄弟社” は後に再構成の時を迎えますが、その時まで、否、それ以降も、主力製品であった「メンソレータム」の香りとともにヴォーリズの理想を支え続けるのでした。(* 現在「メンソレータム」は商標権とともにロート製薬が販売しており、近江兄弟社からは「メンターム」の名で商品展開されています。)

 

ヴォーリズにして “世界の中心” とまで言わしめ愛された近江八幡の地で、妻 満喜子も学校教育の発展に寄与し夫を支え続けました。戦前に興した結核療養所「近江療養院」(現 ヴォーリズ記念病院)などとともに、近江の文化と厚生発展に尽くす聖心の道を夫と二人三脚で歩み続けたのです・・。

昭和39年(1964年)ヴォーリズは自らが設計し満喜子と二人暮らした自邸で天寿を全うしました。 32年に倒れ 凡そ7年間の闘病生活の末ではありましたが、一点の曇りなき清爽の昇天であったのではないでしょうか・・。 彼が第二の故郷として定めた近江八幡と日本の国に遺したものは あまりにも多く、また恵みに溢れていたからです。

病に伏した翌年に “近江八幡市名誉市民” 第一号の栄誉、没後には国より瑞宝章が与えられましたが、もう少し早き受賞であっても良かったのではないかとも思えます。

(前)編で触れました “池田町洋館街” の近く慈恩寺町には、夫妻が運営していた “清友園幼稚園” の教員宿舎であり、晩年の夫妻住居であった現「ヴォーリズ記念館」も現存しています。

ウィリアム・メレル・ヴォーリズ / 一柳米来留、自らの信念と人々の心にミントの香のごとく福音の実績を残した “青い目の日本人” 、近江八幡をご訪問の際には、彼のような人物がいたことを思い出していただければ幸いです・・。

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