乳の神は愛を紡いで深き里に鎮まる – 熊本県

九州の中央部を担う熊本県、そのまた中央付近を東西に横たわるように位置する八代市。 さらにその内陸部 宮崎県にも近い東部山間の地ともなれば九州中央山地のお膝元、周囲を深い山々と谷で囲まれ、交通路の確保された現在でも到達に時間が掛かります。

いわんや車も無ければ道さえ定かでない古の時代にあっては、まさに人の立ち入りを阻む未踏の地といって差し支えないような場所であったのでしょう。

しかし、森の鳥や獣、川の虫魚の声のみ流れる如き この幽玄の地にあっても、人の営みはささやかにも紡がれていたのです。 そしてそれは他の人里につながることもなく小さく密やかな暮らしでありながら、そこに稀有なるドラマと一条の光を残したのでした・・。

 

この深山の地は “五家荘(ごかしょう)” と呼ばれています。
五家、つまり5つの家督がこの地に根付き永らえたことを意味します。

現在も「椎原(しいばる)」「久連子(くれこ)」「葉木(はぎ)」「仁田尾(にたお)」「樅木(もみき)」の5地域にその名を残す由来は、平安末期 壇ノ浦の戦い(1185年頃)で落ち延びた平清経(たいらのきよつね)一行が 豊後(大分県)緒方家と通じて「緒方」姓を名乗り、その嫡男盛行が椎原、次男近盛が久連子、三男実明が葉木、他の類縁が仁田尾と樅木を治めて、この地に “隠れ里” を築いたことに始まると伝えられています。

また一説には、仁田尾と樅木はそれらの300年前に、太宰府に配された菅原道真の後裔が「左座(ぞうざ)」姓を称して治めていたものともされているそうで・・。

五家荘の民家 昭和中盤の撮影

どちらにせよ、その運命に翻弄されながらも一族の命脈をつなげるべく懸命に生を模索し、追手をかわすために人足及ばぬような山奥に根を張った人々・・ということができるでしょうか。 人の争いとは最前にて戦った者だけでなく、それに纏わる数多の人生を巻き込んで流れてゆくのです・・。

 

落人の部落といえども一朝一夕に安息するものでもなく、上述のとおり当地に伝がありそうな場合には一時的な庇護を求めたり、人目に付きにくい生活場所を探し回ったりと苦労も絶えず、また その構成する人数によっても活路は様々なのですが・・。

そのような中に単身とも思しき少人数で五家荘の外れ、柿迫(かきざこ)の岩屋に棲み着いた者がいました。 それまで 名を “玉虫” または “舞” とも呼ばれ、まだ二十歳そこそこのうら若き女性、一説には弟を連れていたともいわれています。

「玉虫御前」 この者こそ 源平 屋島の合戦において、扇を手に船上に立ち 是を射よとて源氏方を扇ぎたる女官。 荒波に船揺れる中、数尺狂えば その紅顔さえ射抜かれかねない中で、扇落とされはしたものの那須与一と堂々渡り合った気骨の女性でもあったのです。

「時ならぬ 花や紅葉をみつるかな 芳野初瀬の麓ならねど」
(季節にも違えて 花や紅葉の落ちる様を見るよう 吉野や初瀬の麓でもないのに)

平家物語 “扇の的” にても知られる名場面、戦はこの後 源氏の趨勢高く、平家は滅亡への道を歩んでゆくことになるのですが、その戦乱を生き抜き、修羅の道を掻き分け、この肥後(熊本県)の山深く辿り着いたのが「玉虫御前」その人なのでありました。

 

建礼門院(平清盛の娘、安徳天皇の母)の側女をも務めていた玉虫でしたが、大勢が決し平家が落ちれば 最早 一介の逃亡者であり力無き者でしかありません。 玉虫がこの地に逃れたのは彼女が元々肥後御船の出身だったからという話も伝わっています。

追手に対する警戒からか、 岩屋に巣食う鬼婆のごとく知らしめるかのように、その名を玉虫でなく「鬼山」と称したともいわれます。

華やかな暮らしも泡沫の夢、今はもう鳥も通わぬ岩屋の奥で 生きることのみつなぐ日々でありましたが、ある日彼女の耳に追手の風聞が舞い込んできます。 平家再興の芽を摘み取らんとする源氏の思惑は執拗であり、ともすれば、日向の地に送り込んだ那須宗久(与一の弟・大八郎)の進退定まらぬこともあって、続きて与一の嫡男 宗治(小太郎)を送り込んできたのでした。

身ひとつで離れて暮らす我が身はともかく、小太郎(宗治)らが五家荘の地にまで分け入ってしまったならば、静かに暮らす人々は終焉を迎えることになるだろう。平家の血筋もそこで絶えてしまうかもしれない・・。 案じた鬼山(玉虫)は小太郎らを足止めすることを決意、彼らの足取りを追いました。

じわじわと歩を進める源氏手勢の後を追い、久連子に至る手前の保口でようやく小太郎に追い付くと・・、「これより先は獣も棲まぬ未開の地、神妙幽玄の山なれば人が軽はずみに立ち入る場所にあらず。今暫しこの地に留まりて再考されては・・」 と小太郎を説諭し、これを引き留めたといわれます。その後、二人は懇ろな仲となったそうで・・。

この結果、追討の勢は散解、五家荘の暮らしは守られたのでした。そして小太郎はこの地に留まり玉虫とその生涯を共にしたそうです・・。

 

ひとつに 運命的な出会い・恋愛物語としても語られるこの伝承ですが、実情的に考えるならば、小太郎 / 那須宗治 として「これより先は・・」の言葉をそのままに受け取ったとは考え難く・・、玉虫の必死の訴えに情を汲み取り 落人狩りを中止・散解させたといった感じでしょうか・・。

日向で落人の暮らしに胸を打たれ鶴富姫と暮らした大八郎 / 宗久といい、かつて刃を交えた源氏方の家臣といえど、今は戦う力を持たぬ者まで粛清仕切ってしまうほどの害意は、持ち合わせていなかったのかもしれませんね・・。

小太郎と玉虫はこの地で生き子にも恵まれ、保口に残る那須の姓は彼らの子孫とも伝わります。 また玉虫は乳の出が良く近在の子らにも分け与えたことから、その没後 “乳の神” ともされて泉町(現在)の「保口若宮神社」にも祀られており、境内の湧水を飲むと乳の出が良くなるといわれているそうです。

五家荘 樅木(現 八代市泉町樅木)にある『五家荘 平家の里』では、この伝承を「鬼山御前伝説」として現代に伝えています。 千年に届く歴史の小さな一編、深山・渓谷に囲まれた当地にお越しの際は訪ねられてみるのも良いのではないでしょうか・・。

次回は同じ熊本県から、もう少し砕けた? 民話とそのコラムをお届けする予定です・・。お楽しみに・・。

『五家荘平家の里』 熊本県観光連盟 参考サイト

 

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