坊様は坊様なりに大変でした – 前編

.
イナバナ.コム では民話や伝承の記事を重要なカテゴリーとして扱っているため、そこには結構な頻度で “上人” と呼ばれる僧侶が登場します。 呼び名は違えど “聖人” “大師” “法師”、そして “禅師” なども(厳密な違いはさておき)人々から敬愛される坊様の尊称として知られますね。

後に一大宗派を定める “弘法大師(空海)” “伝教大師(最澄)” “日蓮聖人” “親鸞聖人”、また巷に人気の “一休禅師” は言うに及ばず、当ブログにおいても “法然” “行基” “定恵” “了誉” “玄翁” “勝道” “元三” “命蓮” と、数多の上人がお話の中で重要な役割を果たしています。・・おや? 近年 人気の高い “空也上人” がありませんね、精進せねば・・w。

これら “上人・聖人” とされる方々は、もちろん、幾多の辛苦法難を乗り越え修養を高められた上で、衆生を助け導く徳を施して後世に伝わる偉人となられたのであり、・・故に多くの伝承の中で半ば神の如く霊験とともに扱われるわけですが・・。

 

さりとて “上人・聖人” といわれる方であっても元を正せば一個の人間・・。 “解脱” に至ったとはいえ、食事をとらねば死んでしまいますし、最低限の衣料や住居も必要です。 多くの僧にあっては その修行の妨げとして女人・妻帯を遠ざけますが、そのための克己確立も並大抵ではありません。

そして 厳しい修行を乗り越え、法の頂に達するまで彼らを突き動かすのは、己が学び解釈し心酔した教えであり、それを広めることへの使命感でもありましょう。仏法における “理念・信念の徒” ともいえますね。

自らをして広まった仏の教義によって衆生が救われ安寧の世に至る。その理想達成のため何が必要かというと・・、やはり その信者さんの数ということになります。 一概に比べることは出来ませんが、ここら辺は千年前も現代も似たようなもの・・といったところでしょうか。

現代と違ってメディアも無ければインターネットも存在しない時代。 教えを広め信者を獲得しようと思えば、全国津々浦々、自分の足で歩き辻説法でも何でも、説いて周るより他ありませんでした。

また、当時は現代と異なり、一般における知識・教育というものが無きに等しい時代でもあったため、これを施し、また 大陸で学んだ工法をもって村の治水や灌漑などに尽くすことで、村人たちの信頼や尊崇を集めることも道であったでしょう。

また、所属する宗派や国の大学寮などで大義を修め、果ては仏教の元山である大陸へ渡海して修養を積み、灌頂(かんじょう・免許皆伝的な認定)を授かり帰ることも大きな要素でもありました。 時に命がけの登竜門でもあったのです。

 

各聖人ごとにその道筋は様々ですが、苦労の末 こうして築き上げた身上、一定の規模に達した宗派の維持・発展となると、これはこれでまた大変な仕事ではなかったかと思うのです。

何しろもう一人ではありません。教義という理念を一にするとはいえ、考えも事情も異なる人々をまとめながら団体を維持していかなければならないのですから・・。

さらに、より多くの人々に受け入れられ、かつ整合性のある教義に高めるため自らの理論の研鑽・勉強も欠かせません。多くの聖人たちによる教義は最初からあったそのままではなく、年月により磨き上げられたものなのです。

比叡山延暦寺を立ち上げ 天台宗の開祖となった “最澄” にしても、さらなる “密教” の高みを修得せんがため、一時期とはいえ(後輩ともいえた)空海の弟子となり師事を仰いでいたのもそのためです。

信念、教義の構築・研鑽、そして宗派の維持・発展と、 “坊主丸儲け” どころか人生の全てをかけ死力を尽くして頑張った人なればこそ、時代に名と教えを残す人となったのでしょう。(まぁ 時代が下るに連れ下々では、丸儲けな人も中には居たでしょうがw)

 

茨城県のとある村に こんな話が伝わっています・・。

とある日の夕暮れどき ひとりの旅僧がその村に至り問う
この辺りに一夜の寝蔵となる寺はなきかと

村人応じて曰く 森の先に一軒の廃寺はあれども
堂内 荒れ果て雨露しのぐにも足らず あまつさえ日落ちれば物怪など出でて その寺に宿り還る者なしと・・

されど旅僧 そのような所にこそ我がしとねありと微笑みながら その寺に赴き寝蔵とす

さても 日が暮れ辺りを闇が覆うころ 霊験たる猫が僧の枕元に現れ曰く

自分はかつて この寺で飼われていた猫なれど
住持が逝って後 一匹の大鼠がこの寺に住み着き 関わるもの皆噛み殺してしまう
猫なれば口惜しけれど 自分一人の力では如何ともし難く
願わくば 助力をもって後十一匹の猫を集め これを誅したし・・と

日が上がるとともに僧は村に下ると ことの経緯を話し十一匹の猫を集め寺へと放った

その夜 廃寺からは雷鳴のごとき慟哭が延々と響き渡ったと

また夜が明け 僧と村人たちが寺に行ってみると そこには十二体の猫と一体の大鼠の遺骸が横たわっておったと

猫たちへの慰霊と大鼠の鎮魂を念じて僧たちは 十三の塚を築き懇ろに葬ったそうな・・


記事 前半からいきなり転じての昔話となりました。
話 単体としては よくある魔物退治の類型話といったところですが、この話に登場する旅の僧が “徳一” という名の法相宗の法師であったといわれています。

“徳一(とくいつ)法師” 一般的にはやや知名度に足らぬところが あるかもしれませんが、法相宗に傑出した高僧のひとりであり数多の偉業を遺した導師でもあります。

そして、この “徳一法師”、上述の最澄、さらに空海にまで論戦を挑んだ “切り込み隊長” でもあったのです・・。

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください