逞しき女性による日本のケセラセラ – 後編

「維新」という言葉を聞いて思い出されるのは、最近では政党の名前かもしれません。しかし この国で最大の維新といえば、やはり 江戸時代から明治時代へと移り変わる時期の、政体、国民文化の大転換期を指すのではないでしょうか。

天皇大権のもととはいえ、それまで数百年にわたって続いた身分制度が過去のものとなり、国民生活の多くに新しい施策、そして外国文化の風が吹き込んだ時代。 僅か20〜30年の間にこれほどの自己変革が行なわれたのは、永い日本の歴史の中でも稀有な出来事であったでしょう・・。

さりとて、時代の転換期ということは 新しいものと旧来のものが入り混じっている状態でもあり、昨日までの常識と新しい常識が併存するという、まさに文化の坩堝、ごった煮のような状態であったと思われます。

“明治天皇” にしても、明治元年をもって即位・君臨したイメージがありますが、実は即位そのものは江戸時代、慶応3年(1867年)14歳にして先帝の跡を継ぎ践祚を施されており、翌慶応4年(1868年10月)に即位の礼を立てた11日後に明治が始まりました。 若き身にして時代の変遷を体現した天皇といえるでしょうか・・。

 

そんな 天皇や大半の国民と同じく時代の移り変わりを見届け、昭和のはじめ頃まで その生涯を全う。 後に多くの人々にその名を知られた女性が、今記事のヒロイン “富永登茂(トモ / 熊本訛りによる呼び名 チモ)”(安政2年(1855年)〜昭和10年(1935年))通称 “おてもやん” です。

前編で その歌詞内容をご案内した熊本甚句「おてもやん」。その主人公である “おてもやん” は、実在の人物とその逸話を題材としたものとされていますが・・、実際のところ “トモ” とは どのような女性だったのでしょうか。

安政2年、手永の北岡村(現在の熊本市西区春日 周辺)、小作農家の長女として生まれたトモは 幼いときより健気な女の子として育ちましたが、明治6年 トモ18歳にして相次いで両親を失い、一家の暮らし向きは大きく傾いてしまいます。

農業のみで糊口をしのぐことは難しかったため、トモは7歳年下の登寿(トシ)とともに小料理屋の下働きとして勤めに出ていたようです。開化の光射しはじめた時代とはいえ、女手で生きてゆくことは中々に大変だったと思えますね。

 

明治も半ばとなった頃、トモの家があった場所を鉄道が通ることになり一家は立ち退き、万日という町に引っ越すことになります。現在であれば それなりに補償金も出たでしょうが、当時はせいぜい引っ越しの手当て程度だったのではないでしょうか・・。

貧しく弱き立場の者ほど生きるのに苦労するのは世の常、トモも多くの苦難に翻弄されたわけですが、この引っ越しが彼女にとって大きな出会いのきっかけになるとは・・。

万日に居を構えたトモは、ここから勤め先である小料理屋へ通うことになったのですが、その途中、五反の町を通ります。 この五反に一軒の芸事の教場がありました。この教場の師匠が永田稲(イネ)「おてもやん」の作者とされる方だったのです。

 

永田稲(イネ・慶応元年(1865年)〜昭和13年(1938年))
この方の生家はトモと異なり、熊本ではそれなりの商家であったようです。旧 肥後藩との結びつきも強く過日にあっては羽振りも良かったようですが、それだけに維新以後の世の変転に応じられず家業は傾く一方・・。

娘の行く末を案じた母・辰は、将来 身を立てられるようにと、イネが僅か4歳の時から三味線や舞いの芸事を習わせたそうです。イネの方にもその素養があったようで、習う事に才能を開花させ18の歳には師匠の襲名を果たし “亀甲屋嵐亀之助” を名乗るに至ったそうです。

多くの門下生さえ抱えるイネと、一介の下働きであるトモの出会いが、いつ何処であったか定かではありません。 イネはその仕事柄 料亭・小料理屋との関わりも多かったため、その業務途上のことだったのかもしれませんね。

立場の異なる二人でしたが、トモは芸事に通じて立派に身を立てているイネに憧れを感じ、イネは貧しい生い立ちながらも明るく毛高に生きるトモに敬愛の情を抱いていたのでしょうか・・。

晩年期の永田イネ

職場に通う途中 五反にイネの教場があったことから、トモはここに立ち寄り語り合うことも多かったのでしょう。 親交を深めた二人の中から「おてもやん」は生まれたのです。

只、ここで注目したいことがひとつ・・。前編でもご案内したように、トモをモデルに作られたと思われる「おてもやん」ですが、その中で歌われる女性の苦難や、それを乗り越え生きる強さは、トモの人生をモチーフとしただけのものとは限らないということ・・。

この謡がイネによって整えられたのは明治も中盤以降、トモも30代後半、イネも20代後半といった年齢。当時の結婚年齢を考えれば嫁入り話も過ぎた昔の話でしょう。 謡の中で語られるような決して現在進行系のスキャンダルではないようですね。

また 一説には、イネには当時 庶子ともいえる子がいて、トモがその育て親を努めていたという話もあり、それが事実であれば これらも含めてより二人の絆は固く結ばれていたと考えられます。

言い換えるならば「おてもやん」はトモであると同時にイネでもあり、苦労を潜りながらも力強く生きた同時代の女性全ての姿と言えるのではないでしょうか。

そこには、時に艱難辛苦を味わいながら、それでもそれを悲運と落ち込まず、あっけらかんと笑い飛ばしながらも歩みを止めない、女性ならではの芯の強さ太さが感じられます。 不平等があれば それを凶弾し是正するのも道ですが、現状を受け入れ、その中の小さな幸せを見出して それを育ててゆくのも、またひとつの道なのでしょう・・。

前編で軽く触れた「ケセラセラ」の歌は “なるようになる” という意味合いですが、それは決して諦めに陥る心ではなく、どのような流れの中でも明るく強く生きてゆくという決意でもあるのです・・。

 

後に、イネの弟子のひとりである “赤坂小梅” によってレコード化がなされ「おてもやん」は全国的な知名度を得るに至りました。 赤坂小梅は、テレビ放送が開始された昭和28年と30年に “紅白歌合戦” に出場「おてもやん」を歌唱しています・・。

例年8月に行なわれる「火の国まつり」は 熊本県でも最大級のイベントです。その中でも「おてもやん総おどり」は 5000人超えの参加者を数える伝統的で大規模な踊り、県民享楽のもといとも いえるでしょうか。

この数年、新型コロナウイルスの影響で中止が続いていましたが、本年 “第46回火の国まつり” は いよいよ開催が予定されています。(4月20日現在) 火の国の熱い想いの祭り 今年こそは再開してほしいものですね。

熊本県民の心には 今も「おてもやん」が生き続けています。
最後に 可愛らしい「おてもやん」の動画を一枚置いて、今記事の締めとしたいと思います。 本日もお読みいただき有難うございました。

 

『第46回火の国まつり「おてもやん総おどり」』 熊本市 当該ページ

* 2023年4月20日現在

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