安居楽土の国から異風香る昔語り(二)- 長崎県

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前編で触れましたが、往時、異教とされたキリスト教徒の人生は過酷であったようです。 安寧と幸せを願って歩む信仰の道にありながら、命に関わるような苦難を蒙り続けるのは何とも皮肉な話ですが、これも人の業ゆえなのでしょうか・・。

戦国時代、ある程度 寛容されていた布教行為は功を奏し、織田信長が世を去った天正年間には既に全国に10万人以上の信者が居たといわれています。

信長の方針を継承して、当初 キリスト教布教を容認していた豊臣秀吉でしたが 信長の死から5年後、突如として “伴天連追放令” を発布。 キリスト教抑制へと舵を切り替えました。 方針転換の理由としては諸説ありますが、布教を基軸としたポルトガルによる日本領土の侵食、そして何より多数の日本人を奴隷として連れ出していた故とも伝わります。

原城 天草四郎像

そうなると宗教そのものの問題を離れて 政治や商人、人間の野望強欲の問題となりますが、いつの時代も人を救うべき信仰の道は、人を貶める覇道と結びつきやすいのです。

悲しいかな、その煽りを食うのは いつの日も下々の民草や信仰のみを信じて歩む下位の宣教師。 伴天連追放令を追認した江戸幕府は “禁教令” を敷き、中世歴史上最悪ともいえる「島原の乱」を経てキリシタン受難の時代を重ねていくわけですが・・。

 

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『バスチャンの椿』

西彼杵半島(にしそのぎはんとう)の南 樫山の里は海に届きながらも周りを山に囲まれた 盆地のようになっている

その山のひとつに赤岳と呼ばれる岩肌も赤い峰があった

古くから神にその身を捧げていた信徒バスチャンは ある日 赤岳の麓にあった一本の椿の木肌を十字になぞったそうな

するとその後 年とともに十字の跡が浮き出てきたので ”カクレ切支丹” であった里の者たちは 皆この木を霊木と崇め 赤岳も霊山として日毎の礼拝を欠かさぬようになったのだと

里で弔いが出たときには この木の小枝を “土産” というて棺の中に入れてやる
そうすることで逝く者は “パライソ(天国)” に辿り着くと考えた

また 赤岳に三度 参れば ローマの “サンタ・エキレシャン(聖会)” に参ったことになるとも信じておったそうな

 

これほどの信心を里の者たちに広めたバスチャンは もともと深堀 平山郷の農民であったが 若い日に 宣教師ジワンに出会うてからは その教えに惹かれ信徒となり弟子の一人となって布教に務めることとなった

生来 利発で熱心であったバスチャンは その熱意と成果によって師であるジワンから
やがて多くのことを任せられるに至ったという

そして ある日ジワンはバスチャンを呼んでこう告げた

「今後 この辺り一帯は お前の教導に任せよう 私は新たな布教に備えて一旦ジャワに戻らねばならぬから・・」

言い残すと 次の日 ジワンは七人の弟子を連れて船に乗り込み バスチャンに見送られながら港を離れていったのだと

ところが ジワンの船が外海に出て間もなく空はにわかに曇りだした
波は打ち狂い 船は木の葉のごとく弄ばれ ついにはジワン乗員もろとも黒々とした海の藻くずと消えてしもうた

そんなことを露とも知らぬバスチャンであったが
その頃 ひとつのことを思い出して後悔しておったと

「日繰りのことを しっかりと聞き留めておらなんだ・・」

日繰りとは聖母さまにまつわる事績から 祭りの日を定める大事な暦のことで
切支丹たちには とても大切な日取りであった

バスチャンは天に向かって「もう一度 何卒ジワンさまに会わせてください」と祈ったのだと・・

すると 不思議なるかな バスチャンの前にジワン神父の姿が浮かび上がり
日繰りのことを詳しく教え・・ やがてまた消え去ってしもうた・・

この奇跡をもとに遺された暦が “バスチャン暦” と呼ばれ 浦上の信徒には いまだに継がれ祀られる大切な習わしなのだそうな

 

後に伝えられた 七人の弟子たちの死は悼まれ その魂を慰めるために赤岳の椿の木があったところに小さな祠が建てられた 表向きは日本の神さまを祀る場所としていたそうな

「この地で私が死んだら 海の見える山に葬ってほしい 海に連なる民を見守ろう」

そう言っていた ジワン神父を祀るためには 松木集落の森の中に小さな社が建てられた ”ジワン枯松神社” と後に呼び習わされ 今もその姿を偲ばせている

ジワン枯松神社

バスチャンは その後もお上の目を忍びながら布教に心血を注いでおったが
度重なる “浦上崩れ” に晒され ついに捕らえられると長崎の西坂に送られ刑場の露と消えた

その命日 二十三日は今でも樫山の祭事として残っているそうな・・

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バスチャンや当時のカクレ切支丹を脅かしていた “浦上崩れ” とは、キリスト教徒排斥を目的として行われた “切支丹摘発・粛清事件” で、寛政2年以降 幕末に至るまで四度行われ、数え切れぬ殉教者を出しました。

四度目の “浦上四番崩れ” では その途中に明治維新を迎え、諸外国からの猛烈な抗議に応える形で政府は事実上の禁教令廃止を決定。「島原の乱」から250年にわたって続いた切支丹受難の歴史はようやく終わりを迎えたのです。

 

宗教に絡む問題は その内情が複雑です。
国の為政者にしてみれば教義云々などは二の次であり、国家や自らの安全や利益、そして懸念される文化や治安の乱れの方が重要事項なのでしょう。

そしてまた、宗教の本質上、熱心な信者ほど第三者的・外界的な思考や判断を欠きやすいことも事態を混迷に導いています。

そこへ、趨勢を高めようとする教団の思惑、それに乗じて利益を得ようとする国家や商人たちの策謀が絡めば、そこに待っているのは混沌と悲劇の道に他なりません。これは 国内だけの話ではなく、歴史上、世界のいたる所で繰り返されてきた愚かな “人の業” でもありましょう。

 

しかし だからといって、宗教や信心は無碍に否定するものではないと思います。

何故なら “いつの時代” “どこの国や地域” にあっても “神を欲するのは人そのもの” であるからでしょう。 「私は神仏など信じない、宗教など意味がない」という考えの人も数多く居られますし、その意見も否定はしません。

されど、今まさに大切な人の命が生死の境をさまようとき、想定外の事件や災害で命や人生の危機に晒されているその瞬間、人は己が力の無さの中で手を合わせて祈るほかないことを思い知らされます。

文明の未熟な往古の時代は誰しもそれを知っていたので、神 = 自然の力に頼むことが身近にありましたが、些かの科学が発達した近世に近づくに連れ、人は自らの力を見誤るようになってきたのでしょう。 一見 無限に見える “人の可能性” は実に有限なのではないでしょうか。

信心は自分の中で静かに抱くもの。他を否定するのではなく他を受け入れながら、自分自身を慎ましやかに健やかに育ててゆくもの・・。私にはそう思えるのです。

少々、暗く重いお話の回となってしまいました。 次回、最終回はもう少し明るいネタからお送りしたいと思います。m(__)m

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