安居楽土の国から異風香る昔語り(三)- 長崎県

“隠れ切支丹” という非業の歴史。全国的に存在したものの、歴史・風土的に縁の深い長崎のご案内ゆえ 前回、少々暗鬱なお話となってしまいましたが・・。 今回は同じ長崎県でも もう一つ、中国・東南アジアに起源を持つ活気溢れる龍舟競漕(りゅうしゅうきょうそう)、『ペーロン』に題材を借りて記事をお届けしたいと思います。

画像 ©(一社)長崎国際観光コンベンション協会様

“龍舟競漕” という名は(日本で言うところの)『ペーロン』の姿をよく現していますね。極めて細長い船体を26名にも及ぶ漕ぎ手が櫂(かい)を奮い疾走する姿は、さながら雲を突き抜け舞い上がる龍のよう。

長崎市で開催されるものが有名ですが、お隣 熊本県天草地方でも盛大に開かれており、また兵庫県相生市にも “ペーロン祭” があります。さらに沖縄県でも古くより「爬龍船(ハーリー)」の名でペーロンに連なる祭事が伝わっているそうです。

[白龍](パイロン)を語源とされる この舟は、前述のとおり(現在の)中国湖南省汨羅(べきら)に起源を持ち、日本には主に東南アジアルートで伝わってきたと考えられますが・・。 世界的には “DragonBoat・ドラゴンボート” の名で知られ、ヨーロッパなどでも定期的に開催、 “IDBF 国際ドラゴンボート連盟” による国際的競技にもなっているのだとか。

 

一説には 紀元前にまで遡るといわれる「ペーロン・ドラゴンボート」の起源ですが、その一つは、中国春秋戦国時代(現在流行りの “キングダム” はその終盤期)の政治家 “屈原(くつげん)” に因むものと伝わります。

乱世混沌の中、中国南部 “楚(そ)” の宰相 屈原は国を想い、”秦(しん)” の謀略を王に説きましたが受け入れられず、挙げ句、親秦派の讒言によって僻地に左遷されてしまいます。 屈原の懸念は的中し、やがて楚は秦によって併合されるのですが、崩れゆく国家の有様に絶望した屈原は、流地、汨羅の河に身を投げて生涯を閉じました。

善政をもって親しまれた屈原。結果的に届かなかったものの、沈みゆく屈原を助けようと汨羅の民が多数の舟を出し、先を争って駆けつけたという故事が元となっているそうです・・。

画像はイメージです

悲しい展開のお話となっていますが、屈原という政治家は実在したものの、その生涯はあまり詳らかでなく、高名な詩人でもあった屈原を象徴化した作話ではないかとも・・。何せ2300年から前のお話ですからね・・。

 

さて 今ひとつの由来伝承がこちら。屈原の物語に比べ少々説諭的な構成、南洋諸島の神話か何かが何処かの時点で混交したのかもしれません・・。
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『マンリガ島のペールイン』

九州の南 ずっと南 沖縄島より台湾島よりも ずぅっと南の海に
マンリガ島 という名の のどかな島国があったと

この島は お天道さんもよく降り注ぐし 雨もそこそこに降る
いつも 穏やかな天気の島であったので 食べるものにも一向困らなんだ

まことに結構 有り難いお話なんじゃが こうなると人の性の悪いところ
誰も汗水流して働こうとせん いつも昼間からごろごろ寝てばかり・・

島の王さま “ペールイン” は この悪習をなんとかしたいと
お触れを出したり 気持ちを正すことの大事さを説いてまわったが
もともと のんびりした島民の気質 極々一部の者を除いて誰も動こうとはせなんだ・・

ある日のことな

王さまの夢に 天の神さまが現れて こう告げたそうな

「王宮の前に建つ仁王像の顔が赤く染まったときは この国に一大事が訪れる」
「その時は すぐさま船に乗って この島から逃れよ・・」

恐ろしい 神のお告げに驚き目ざめた王さまは 早速このことを国中に告げ注意するように触れまわった

しかし果たせるかな 大方の民は またいつもの事とせせら笑っているばかり

 

それどころか その話を聞いた悪戯好きな若僧ふたりが「こりゃ面白ぇ」と
罰当りにも夜中に仁王像にかき上り そのお顔を朱で赤く塗ってしもうたのだと

神のお告げを気にかけていた王さまは 翌朝 仁王像の顔を見てびっくり仰天

今すぐ島を出るようにとお触れを出すと
自らも家族と 身の回りで長年王を支えてきた臣下たちを従えて船に乗り島を離れたと

この様子を見ていた若僧どもは 腹を抱えて笑い転げる始末・・

 

ところがじゃ・・

王さまたちが岸を離れ 波もゆらりと高うなったとき

一天にわかに掻き曇り 海の底から湧いて来るような轟音が不気味に響き渡ると
あっという間に 島の全てが崩れ落ちて 海の藻くずと消え失せてしもうたそうな

助かったのは王さまと周りの家族たち それに王さまの話を真面目に聞いて島を離れていた僅かな人々だけだったと・・

王さまたちを乗せた船は 大きな白波に押されて福州にまで流れ着いた

少ないながらも 生き長らえた民は 難を逃れた日を記念して
毎年 その日になると「ペールイン! ペールイン!」と号しながら船を漕ぎ
王を讃えるようになったのじゃと・・ これが “ペーロン” の起こりじゃて・・
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為政者と仕える者の顛末が逆になっていますが、楚の王ともども 忠言に耳を貸さず慢心していた者たちが滅びに至る筋書きとなっています。 上記2話どちらが先かは分かりませんが、何らかの影響やつながりが有るのかもしれませんね・・。

“マンリガ島” とは別記 “万里ヶ島” とも書き、長崎県では “台湾の南” 、南九州地域では “甑島列島(こしきしまれっとう・鹿児島県西方)” 近辺とされていますが、甑島は今も健在ですので地元の人にしてみれば「冗談じゃない!」お話かもしれませんw。

 

長崎でペーロン競漕が興ったのは江戸時代、明暦の初めと伝わります。
港に停泊していた唐船が暴風雨で難破し、多くの被災者を出したことから、その霊を鎮め海の神に頼むために唐人たちが、小舟を集めて始めたのだとか・・。

後世に伝わる伝承には悲しみであれ喜びであれ、当時に起こった忘れ難い記憶がその底辺に流れています。 そしてそれは祭事となって引き継がれている現在のイベントでも同様なのです。

スポーツシャツにハチマキ姿で頑張っている現在のペーロンも、古くは “紅縮緬(ちりめん)に白タスキ” であったそう。 時代が変わり少しずつその様相が変化しても、その根底には往古の人の想いが息づいているのでしょう。

苦難の歴史に見舞われても、生き続ける民にとってその地は離れ難き安居楽土の地。
風雪のときを幾度も数えながら、今、長崎に流れているのは平和の風なのです・・。

『長崎ペーロン選手権大会』について(参考)
(一社)長崎国際観光コンベンション協会

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