「旧家にはザシキワラシという神の住みたもう家少なからず。この神は多くは十二三ばかりの童児なり。おりおり人に姿を見することあり。・・・この神の宿りたもう家は富貴自在なりということなり。」(柳田國男 / 遠野物語)より
明治という名の大変革が到来して以来、この国はその歩みの基を大きく西洋的思考へと舵を切りました。 欧米列強の風に晒される中、同等の国際化を目指した時代背景では当然の流れでしょうが、それはまた それまで連綿と日本人の芯に流れてきた 大和心が薄らいでいったことも意味します。
今から100年以上も前、民俗学に傾倒し日本の風土研究や民話蒐集を通じて、大和心の再確認に取り組んだ柳田國男は、東北地方を中心に失われゆく伝承の発掘とその検証を進め、 今日に続く日本民俗学の基礎を築いたのです。
ザシキワラシ=座敷童 は、その東北地方によく聞かれる神霊(または妖怪)のひとつとされ、特に柳田の著書「遠野物語」の舞台となった岩手県遠野地方(現在の遠野市)の代表的な伝承として有名です。
その姿は5、6歳から12、3歳、性別も男児であったり女児であったりと口伝によって異なり、人数も一人、二人、それ以上と様々ですが、主に共通するのが “座敷童が住み着いた家は家勢が上がる” しかし “そこから去ると家は没落する” というものでしょうか。
こういった怪異の傾向は西日本における “犬神” や、一部の “狐憑き” にも見られる富貴凋落のパターンですが、これらの多くが忌避されるべき感覚を持たれているのに反して、座敷童の場合は 童子の外見からか、悪い印象をもって語られることは少なく、むしろ “福の神” としての側面が強い稀有な存在でもありますね。
多くの場合、旧家の奥座敷や蔵など薄暗く静かな部屋に居つき、子供の目には姿が見えるが大人には見えない、子供たちの輪に知らぬ間に混じっている、昼夜問わずささやかな悪戯をする、時に大人の前にさえ姿を現して相撲をとるなど、不気味というより愛らしさが際立つようなエピソードが多いのも、座敷童から負のイメージを遠ざけていますし・・。
“家を去るとその家は没落する” というのも 只去るのではなく、家長や家人が富貴に溺れ人道を外れた生き様に陥ると その家を見限るといったもので、教訓的な意味合いも多分に含まれており “善神” の面影を強めているのでしょう。
そんな座敷童が住まう遠野の北、雄大に広がる “早池峰山(はやちねさん)” は、神話と信仰が息づく北上山地の最高峰です。 春〜夏には数知れぬ そして貴重な高山植物が萌え、冬の雪を頂いたその優美な山容は替え難い美しさを誇り、日本百名山をはじめ数々の賛称を受けています。
往古には “東根岳(あづまね)” と呼ばれた この山、早池峰の名に呼び代わったのがいつの頃なのか詳らかではありませんが、一説には古くこの辺りに大きな影響を与えていたアイヌ文化の “バヤチネカ(東国の山)” ではないかとも言われ・・。
また如何なる酷暑にも枯れず 如何なる大雨にも破れないと伝わる、山頂の小さな泉 “開慶水(かいけいすい)” 、されど少しでも穢れるとたちどころに枯れ、修験者の祈祷によってまた元に戻る “早地(はやち)の泉” が名の起こりとも伝わります。
その山頂は現在 宮古市、花巻市、遠野市の三つの市の市境を抱える場所となっているのですが、転じて山の裾野、登山口は東西南北に分かれ、東登山口(宮古市江繋)、西登山口(花巻市大迫町)、南登山口(遠野市附馬牛町)、北登山口(宮古市門馬)の4ヶ所からなっています。
そして、その4ヶ所それぞれの登山道入口に鎮まっているのが『早池峰神社』
早池峰山山頂を奥宮に擁し登山口の社を里宮としています。※
※紫波郡矢巾町にももう一社 “早池峰神社” があります。
宮古市側、東と北の登山口2ヶ所は小さな祠のみ残る形となっていますが、西の花巻市側と南の遠野市側には、神厳の山界へと続く階段を仰いで古式ゆかしい社が建っています。
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遥か昔、この早池峰山の麓を花巻大迫側から兵部成房(ひょうぶなるふさ)、遠野附馬牛(つきもうし)側から四角籐蔵(しかくとうぞう)という二人の猟師が、それぞれに不思議な白鹿に誘われて山頂までやって来たのだそうです。
山頂まで来ると白鹿は霞のように消え失せてしまいます。 頂で出会い、ともに この不思議な出来事に首をかしげる二人の前に今度は神々しい光が立ち込め、やがて その中からこの世のものとは思えない美しい姫神が姿を現したではありませんか・・。
思わずその場に平伏し姫神に手を合わせる二人・・、やがて姫神は光に包み込まれるかのように消え去っていきましたが、その場に残った二人は、この頂こそ山の神の坐す場所であることを知り、ここに姫神を祀るための祠を建てることを誓い合い、目印に成房は弓矢を、籐蔵は山刀を残してやがてを降りたのだそうです。
やがて 頂の雪も溶け草木も茂る頃、二人は約束どおり祠を建てここに「東根嶽明神」(早池峰の旧名)を祀って、それぞれの里宮を治める神職に就きました。
時代の流れに沿い、山岳修験の地、仏教の教えを巧みに交えながら山頂の祠 / 堂を本宮、麓登山口の社を里宮として律する『早池峰神社』の姿は、こうして形造られて来たのです。
そして、いつの頃からなのでしょうか、遠野の愛される神霊 “座敷童” が 遠野 早池峰神社の歴史に関わり始めたのは・・。 比較的 新しいものとされていることから、柳田國男によって遠野の民話伝承に再び光が当てられて以降、近代のことなのかもしれません。
一説に、座敷童は境内の御神木に依り代を求めることがあり、時に神社の参拝客の後に着いて行ってその人の家を富ませることがあったのだとか。 今も遠野の早池峰神社では4月の後半に “座敷わらし祈願祭” “神楽” などを奉納しているそうです。
早池峰神社の正式な御祭神は “瀬織津姫之命(せおりつひめ)” とされていますが、こちらも記紀に記載が無く その神格も不明にもかかわらず、大祓(非常に重要な儀式)にまつわり竜神や宗像三女神にもつながる水の神とされたり、また天照大神の荒魂との説もあり、果ては、早池峰山の山名でも少し触れましたが、アイヌに届く存在なのではないかとさえ言われる、荘厳で謎に満ちた神様なのです・・。
本日は “座敷童” と “早池峰の山と社” をテーマにお送りしましたが、遠野にはまだまだ語り尽くせない、悠久の歴史と そこに確かに息づく不思議な伝承が数多く残っています。
是非、貴方ご自身の手でご体験いただければと思います。
早池峯神社(遠野市) 〒028-0661 岩手県遠野市附馬牛町上附馬牛19-81
※花巻市大迫の早池峰神社などとは別の社ですのでご注意ください。