両翼興県 因縁越えて花開く明日への道 − 群馬県

いかなる集団でも その内実が完全にまとまっているとは限りません。
ましてや その規模が大きくなればなるほど、全員が意識や価値観を共有し尊重し合い ベストな道筋を導き出すことは中々に難しいものです。

新型コロナウイルス感染症、国内で初の感染者が確認されて早一年、病理の難しさが脅威であったことは確かですが、これに対する個人個人の判断や価値観 そして生活上の利害関係が絡み合い、ありとあらゆる意見・議論・風説に至るまでが百出、効果的な選択が導き出せないのみか対策も後手に回り勝ちです。

そもそも 大きな集団において全ての人が満足出来る “解” というものは有り得ないので、対処が困難な時ほど全ての人が公平に負担を負い 我慢を忍ばなければならないのですが、その辺りの見極めにさえ やはり個々人の考えが絡んでくるので問題をさらに複雑化させてしまうのでしょう。

人の業と言うなかれ、人にはそれぞれの事情があるのです・・。
とは言え、なるべくなら粛々と陽のあたる出口を目指したいものですね。

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大袈裟な揶揄・・とでも言いましょうか、「百年戦争」とまで風刺された関係が群馬県にありました。 群馬県の県庁所在地 前橋市と隣接する高崎市は、明治期の県庁地選定におけるいざこざが元で大正から昭和、平成にかかるまで その確執を引きずる形となってしまったと言われています。

明治4年、当時 前橋と高崎の地域を中心として栄えていた “群馬郡” を核として群馬県は制定されました(第一次群馬県)。 政府は当初 高崎城址に支庁を開いたのですが諸々の事情により翌年には前橋に支庁を移転します。

ところが、さらに翌年明治6年になると隣接する入間県(いるまけん・当時存在した行政県)と合併して群馬県は熊谷県(くまがやけん)と改称、前橋、高崎、秩父の3ヶ所に支庁分散設置の運びとなります。

しかし、この体制もわずか3年で終わりを迎え、明治9年には再び行政区画の再編が行われて熊谷県は消滅、(第二次)群馬県が復活して高崎市安国寺の地所に県庁を置き、形の上では現在の群馬県の基礎が完成しました。

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ようやく体制が整ったはずの群馬県でしたが、この県庁舎の規模に問題が残ったのです。
安国寺の地所だけでは県政を賄うための機関を収容出来ず、市内数ヶ所に分署を分散して配置せざるを得ませんでした。 そのために行政の進行に支障をきたすこと甚だしかったと・・。

新生群馬県の初代県令(知事) となった 楫取素彦(かとりもとひこ)は、高崎市においてこれを解決するべく奔走しますが、ここでも市民各位の都合や判断により中々解決には至りません。

奮闘する彼に協力を申し出たのは下村善太郎をはじめとする前橋の有力者たちでした。
彼らは公共施設立ち上げのために私財を投じてこれを応援、この熱意に感じ入った楫取はやがて前橋城址を群馬の県庁にすることを決意、政府に掛け合ったのだそうです。

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されど、政府からの回答は苛烈なものでした。”既に制定している県庁所在地を変更したいのであれば 十万円の資金を用意せよ” と・・

これは ある意味政府からの “ふっかけ” でもあったようです。 明治初期の十万円は現在の価値で20億円近い額であり、当時の経済状況を考えてもとても用意出来るようなものではなく、また 上納金に近い性格の資金でもあったたため協力者の気勢を削ぎました。

しかし、下村たちは激を奮い この資金をかき集めました。前橋の資産家たちに呼びかけ半ば強引とも言える勢いで資金を募っていったそうです。

こうして集められ上納された金額は十万円には届かなかったものの、政府はこれに驚き前橋への県庁移転を許可、程なくして前橋城址敷地内に群馬県庁が開庁されたのでした。

 

注:画像はイメージです。

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ここまで読むと当時の高崎市民には県行政への意識が薄く、前橋市民は熱意に溢れていたかのように思えますが、当然そのような訳ではなく、この一連の県庁移転について高崎市民は怒りを顕にしました。

県庁奪還のための運動が起こり最終的には裁判にまで持ち込まれましたが、明治15年3月、高崎市民の訴えは退けられ群馬県庁所在地は前橋市と確定し今日に至っています。

そもそも、楫取素彦県令が高崎市において協力を募った折に市民側からの反応が捗らなかったのは、当時の日本の主力産業でもあった養蚕から生糸の流通拠点として潤っていた前橋に対して、歴史的に士族と農民、市民で構成されていた高崎では経済的な膂力が違い過ぎたことに大きな要因があったのでしょう。

激動の時代だったとはいえ、当時の政府の政策の不手際さ、狡猾さもそれに拍車をかけたと言えるのではないでしょうか。

ともあれ、前橋市民には熱意と尽力で勝ち取ったという自負が芽生え、高崎市民には金で群馬の象徴と発展の礎を奪われたという悪感情が生まれてしまいました。

以降、明治から大正そして昭和を通して前橋市と高崎市の関係は、事あるごとに対立が浮き彫りになる場面が散見される構図となってしまったのです。

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紛糾から140年、当時の面影など見る間もないほど前橋市も高崎市もすっかり様変わりしました。

県庁をはじめとして行政機関・金融機関、公共施設が立ち並び、文化教育の面でも充実を果たしてきた前橋市、古くから交通の要衝であったことを活かして商業を発展させ今や前橋市を凌ぐ経済力を確立した高崎市。

今となっては明治の禍根に拘る人も少ないでしょう。時代が残した爪痕は消え難くも時とともに薄らぎ、平成に入って以降 両市の協力事業やイベントも増え続けています。

一時は両市合併案件も取り沙汰される程にまでなりましたが、結果的にこの案件は退けられました。 前橋市、高崎市の両市は過去の因縁を拭い去りながらも安易に同一せず、互いを良きライバルと見立て切磋琢磨することで、群馬県をもり立ててゆくための より大きなシナジー効果を求めてゆく道を選び、これを称して「両翼興県」と謳っています。

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「鶴舞う姿」の地形と言われる群馬県、それに最適な標語「両翼興県」、確執が有ったればこそ、それを乗り越え 理解と相互に高め合う道を見出した歴史は決して軽いものではありませんでしたが、上州気質と呼ばれる人々の未来に明るい選択肢が開かれたことには間違いないでしょう。

人ひとりひとりの個性や価値観・主義主張を尊重しながらも、全体としての社会性を守ってゆくのが “未来へ続く社会” として あるべき姿なのではないかと思えるのです。

それを模索する道は決して平坦ではありませんが、いつの日も諦めず歩み続けたいものですね。

 

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