北端の岬に見る船玉 異境の神の情景 ー 青森県

地方・地域ごとの歴史や風習に関係する記事を書いていると、その地とは一見繋がりのなさそうな祭事や伝承が息づいていることに驚かされます。

歴史というものは面白いもので、単に地理的、時間的な感覚だけでは推察出来ない、予想外の出来事や人々の心の動きを取り込みながら織成されてゆくものなのでしょうか。

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鉞(まさかり)の異名を持つ本州北端の地、青森県 下北半島、その多くを山地が占めるため、山なみの途切れる “むつ市” 一帯を除いて、必然的に人が住まう居住地は半島の周囲・海岸線に沿って開けることとなります。

鉞の刃の部分のさらに北端、北海道函館を彼方に望む “大間町” も同じく海にその生業を立て永く栄えてきました。 突端 大間崎の一角に佇むモニュメントが示すようにマグロ漁で盛ん、近年では “大間のマグロ” の名で知られ観光にも力を入れているそうです。

古来より漁業の歴史を紡いできた大間の町には 港町ならではの伝統と風土が今も大切にされており、丁度今頃、一月(例年1月11日)には 大間稲荷神社を祈願所に「船玉祭」が開かれます。

“おふなださま” と呼ばれる この神事、海の神に対して漁業の安全や大漁祈願を祈るのは本懐ながら、古くは網元と乗子(従事者)のその年の契約を祝う祭事であったといわれています。 神事の後には漁師内で宴会の席が設けられるなど、漁業関係者のみで執り行われる地域性の高い催しと言えるでしょうか。

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一方、夏も盛りの7月末(海の日)に合わせ 行われる行事が「天妃様行列」(てんぴさまぎょうれつ) 本日ご案内する記事の本編です。

例によって大漁祈願祭が行われた後、町内の往路を行列が練り歩くのですが、その中心となるのが大きな着ぐるみの人形達、天妃様を筆頭とした異国情緒あふれる神々の姿、その情景は何処かで見た記憶のあるもの・・

そう、この感じは主に九州や沖縄などで見られる南洋系の祭事の面影、顔に被る面ではなく全体の被り物であるところも比較的珍しい形ですが、人形の容姿とそこから漂う印象は大陸文化の名残りを色濃く残しています。

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祭り行列の主人公 天妃様とは、その本性を媽祖(まそ)と言い中国南部沿岸地域から台湾にかけて信仰を集める道教の女神であり、航海の守護神であるようです。

10世紀頃の実在の女性がモデルであり神格化されたようで、当時、閩(びん・現在の福建省)の官人であった林氏の息女であったとされています。

幼い頃より才気に優れたのみならず不思議な威光や芳香を纏っていたといわれ、吉兆の予言や病を鎮める超常の力を持っていたと伝わり、いつしか伝承は伝承を呼んで船を用いずに海を渡った、雲に乗って島々を巡った、龍を退けて災害を防いだなど存命中から多くの逸話に包まれていました。

持てる力を土地の人々のために役立て “通玄霊女” と称された彼女でしたが、父の海難事故に際してこれを苦に海に身を投じた、もしくは修行の末天界に昇り、後 海業に関わる人々の守り神となったと伝えられています。

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元々、媽祖(まそ)の名は その文字 “媽(ま)” に見るように “母” の意味を持っており(中国語で母親は “妈妈” 簡体字)、言ってみれば「大母神」的な存在感を併せ持っています。 さながら海の広大さに喩えられる “母の慈愛” の権化といったところでしょうか。

日本の “稲荷神” が当初 稲作・食の神であったにもかかわらず、いつしか商売繁盛の神にまでなったのに同じく、媽祖も海神・水神の本義はそのままに時代が進むにつれて より多くの利益を添加され、その神格も増大していきました。

華僑や開拓移民を通じて東南アジアを中心に、数多の国々にその名と伝承を伝え広めていった “媽祖信仰” だったのです。

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そういった事から地理的にも日本においては、やはり南西の地域に、そして華僑と関わりの深い横浜や神戸の中華街に、媽祖信仰やその影響を見ることが出来るのですが・・

さて、地理的にもおよそ遠く、南西諸島の文化よりも むしろ北方アイヌ文化の影響を受けていそうな青森北端の地に、何故 媽祖信仰が根付いているのでしょうか・・

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「天妃様行列」をはじめとして大間の祭事の多くを司る「大間稲荷神社」は、まさに地元の神事を治める産土神ともいえる社です。 創建は享保15年(1730年)能登屋市左衛門という方の勧請によるもので、当初は “百滝稲荷明神” と呼ばれていたのだとか。

また 漁業の里らしく この社とは別に「金毘羅権現」がありました。媽祖神と同じく海運・航海を司る神様としてご存知のとおり海辺の町には多く見られます。

そして 元禄9年(1697年)7月23日付、(後に大間の名主となる)伊藤五左衛門が海難に遭いながらも一命を保った事を契機に、水戸藩那珂湊 (なかみなと) から勧請し この地に祀ったのが天妃様こと媽祖神であったのです。 現在の「天妃様行列」もこの勧請鎮座の日に因んでいるようですね。

さらに 何故 水戸藩からかというと、日本に導入された媽祖神はその神格に(日本神話ヤマトタケルの段において自らの命を賭して荒波を鎮めた) “弟橘媛 (オトタチバナヒメ)” の神格が混淆されており、常陸・水戸の地がその弟橘媛縁の地であったからなのだとか。

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明治6年に 大間稲荷神社がこれら “金毘羅権現” や “天妃媽祖権現” を合祀、同16年に現在の社地に遷座して今に至っているのだそうです。

天妃媽祖神信仰は地理的な要因から往古の琉球や薩摩に伝わり、時代が下るとともに上記の茨城(常陸)にも大陸からの渡来僧などによって広まりました。(その際に水戸光圀公も関わったという話もあります) その後、関東圏を中心に近畿、北陸、山陰など各地方の海運・漁業に関わる地域で “船玉神” と混淆しながら信仰の輪を広げてゆきました。

しかし、遠く離れた東北地方において天妃媽祖神の信仰とその祭儀が盛大に行われているのは、この大間町だけです。

北端の地に遷座を成し300年目、1996年から毎年7月の海の日に合わせて行われる「天妃様行列」 昨年はコロナウイルス問題に合わせて中止となりましたが、今年の夏にはコロナ禍も収まり晴々と挙行されることを願うばかり・・。

機会がありましたら北海を彩る東南の神の威光と色彩を体験、大間の地をお訪ねになってみてください。

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