その後光は勝手場から溢れている 於竹伝承(前)− 東京都

地上高 634m 世界一高い電波塔であり、東京のランドマークタワーともなっている「東京スカイツリー」 電波塔以外の建築物を含めた中でもドバイのブルジュ・ハリファに次ぐ世界第二位の高さを誇ります。まさに日本の建築技術の粋といったところでしょうか。
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私など地方在住者からみると、高く新しい「東京スカイツリー」が「東京のシンボル」になっているのかなと思っていましたが、意外と1958年竣工、高さ333mの「東京タワー」の方にいまだ象徴性を感じられる方が少なくないようで「東京のシンボル」というキーワードで検索すると「東京タワー」が群を抜いて挙げられることからも それが見て取れます。
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やはり、開業以来 60余年にわたって日本の空を貫き その勇姿を誇ってきた経歴は伊達ではないといったところでしょうか。

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その東京タワーのお膝元、芝公園の中央に位置する「三縁山広度院増上寺(さんえんざん こうどいん ぞうじょうじ)」 通称 増上寺、平安時代にその前身をもち、江戸時代に現在の地に徳川家菩提の寺として建てられた浄土宗の寺院です。
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古式ゆかしき寺院ながら都会の一等地、東京タワーからわずか200mほどの距離にあることから、古式ゆかしい建築と朱に染まり天を衝く幾何学の塔のミスマッチングが不思議な景観を生み出し、撮影スポットとしても人気の高い名所ですね。

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江戸の町の北東 ”鬼門” を護る「寛永寺」に対して 南西 ”裏鬼門” を護るといわれる「増上寺」 このふたつの寺の丁度真ん中辺りでしょうか、隅田川や神田川に接する中央区の一角を占めるのが「日本橋伝馬町」(正しくは日本橋大伝馬町と日本橋小伝馬町)
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時代劇などにおいて(史実も含め)牢屋敷 などで知られる伝馬町(現在も大安楽寺内に伝馬町牢屋敷跡 有り)ですが、日光街道や奥州街道にかかる地勢上多くの旅人や行商人が行き交い栄えた町で、江戸市中最大の繊維問屋街でもありました。
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そして、この町の名 ”伝馬” は その名のとおり ”伝える馬” 、つまり、幕府中央から地方へ、逆に地方から中央へ ”駅伝制(リレー方式)” で、情報や輸送などを伝える(今日でいうならネットワーク・ターミナル)任を負っていた重要拠点でもあり、全国各地にも「伝馬町」の名を留める地名が残っています。

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今日はこの伝馬町と芝 増上寺を結ぶ お話をひとつご紹介しましょう。

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江戸、伝馬町で伝馬役の草分けでもあった “佐久間善八” は やがて大名主となり、紙や織物を扱う大店をも築きました。
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堅気な性格であるとともに家人や下働きの者にも気配りを欠かさない “佐久間善八” の店に ある日 ふとした伝手で奉公に上がったのが「お竹」という名の娘さん。
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年の頃 17~18歳といったところでしょうか、出羽庄内(山形)の出身、幼いうちに両親・家族を亡くしているにもかかわらず、明るく健気な性格で誰からも愛されそうな相好を善八も気に入り女中として置くことにしたそうです。

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善八の見立てどおり お竹さんはどのような仕事であってもよく務めたそうです。
それどころか 人一倍働くのみならず、自分の仕事を片付けた後も同じ奉公人の手伝いをしてあげたり、洗濯物をすませてやったり、疲れた者を見れば肩を揉んで介抱してやったりと正に八面六臂の働き・・
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普通、集団の中でここまですると、中には不心得者もいて かえって妬んだり陰口をきいたりと面倒なことも起こりやすいものですが、こと お竹さんについてはそういった問題は起こらなかったようです。
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なぜなら、どのような相手にも別け隔てなく接し気を配り、そして裏表のない お竹さんの性分には、それこそ陰口でも叩こうものなら自分に天罰でも当たりそうなほどの人の良さを皆が感じていたからかも知れません。
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善八も お竹の働きと素行に、つくづく良い者を雇ったものだと感じ入っておりました。

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そんな 善八のもとを ある日訪ねてきたのが一人の老練な修験の僧・・
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通された座敷で善八を前に 深く刻まれたしわを震わせながら行者はこう切り出したのだそうです
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「拙僧 長年にわたり出羽は湯殿の山に籠り求道を重ねてまいった 乗蓮と申す者」
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「かねてより 大日如来の御姿を拝したいと日夜念じていたところ ある日にわかに清浄なる光が現れその彼方から こう託されましたのです」
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「我が姿を見たくば これより江戸へと赴き伝馬の町の佐久間家に仕えたる竹に会うがよい・・と」

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これを聞いた善八は驚きました
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「これはまさかに お竹が大日如来の御姿などと・・ 確かにお竹は稀に見る健気な娘ではありますが 一介の人であることにはかわりありますまい・・」
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・・と、ここまで言うて「いや・・待てよ」と思い出したのは 以前下働きの者から聞いた話
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〜 ある日 子を連れたみすぼらしいなりの女が裏木戸に現れ 食べ物を乞うた
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それを見止めた お竹はすぐさま使用人の食べ残しを集め親子に与えたそうな
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幾度も礼を言いながら立ち去る親子を見送っていたお竹は それより後「一粒の米でも大切にしなければ」と 米研ぎの流しに布切れの受けを付け米粒の無駄をなくしたのだと
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のみならず 普段 自らは皆の食べ残しを食べ 物乞いの者には自分の分の食を与え
さらに日頃からの信心の深さからか 一息つくごとに日々への感謝 神仏への感謝を怠らなかったそうな 〜
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いやはや 飽食、そして放埒の時代ともいわれる現代からしてみると、耳が痛いのを通り越して信じられない程の倹約ぶり、というのか、お竹さんの普段からの性格・徳の高さに頭が下がる思いですね。
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ここまで徹底していると あくまで伝承上の人物かと思えてしまいますが、”お竹さん” どうも実在の方だったようです。
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佐久間善八と修験の僧、この後どうするのでしょうか・・
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ー 以下 後編へ

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