傾国と謳われた貴妃 その終焉の地は何処(後)- 山口県

7世紀初頭、滅亡した「隋」に続いて興った国家「唐」 大陸東端から中央アジア一帯にまで国土を広げ、その国力と文化の隆盛は周辺諸国にも多大な影響を与えました。

その最盛期は 日本ではおよそ奈良時代にあたり「遣唐使」などの使節を送り多くの文化交流を果たしました。後世に名を残し仏教文化の礎を築いた “空海” や “最澄” も この遣唐使の一員として唐に渡り数多の経典と智慧を持ち帰っています。

この遣唐使使節、約200年の間に十数回 挙行されていますが、その第9次派遣に随行して唐の都 長安に渡ったのが学才高きことで将来を嘱望されていた 阿倍仲麻呂(あべのなかまろ) 小倉百人一首「天の原 ふりさけみれば春日なる 三笠の山に出でし月かも」でご存知の方も多いでしょう。

 

長安にあって間もなくその才機を発揮した仲麻呂はじきに当地の政権中枢へと上がり、 今回の伝承の雄でもある玄宗皇帝のそばに仕えることとなりました。
史書の一つである「続日本紀」において「わが国の学生にして名を唐国に上げたる者は ただ吉備真備と安倍仲麻呂の二人のみ」と賞されています。

ここまでのお話で気づかれた方も多いでしょうか、夢にい出た楊貴妃が言う「私を逃してくれ、東国まで導いた者」というのは この安倍仲麻呂であったのです。

とはいえ これはあくまで伝承の中で語られることで、史実の仲麻呂は35年に渡る唐生活を終えた後 ようやく帰国の途に付くものの、あいにくの暴風に船が流され中国南部の浜に押し戻されてしまいます。 結果、長安の官吏に戻ることとなり再び故国の土を踏むことなく当地でその生涯を終えたとされています。

ただ 仲麻呂が漂流、そして 長安への帰投をなした頃は、前編で語った「安史の乱 / 安禄山の乱」が起こった時でもあり、唐は混乱の最中でもあったため 落ち延びる玄宗や楊貴妃に絡んだ話が出てきても不思議ではないかもしれませんね。

 

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東国(日本)まで逃げおおせたものの 病を得てその地で果てた楊貴妃

せめてもの供養をと玄宗の命により 唐屈指の仏師に彫らせた二体の仏像を携え海を渡る使者の一行でしたが、当時の渡海はまさしく命がけの旅、渡航の途中で難破して命を落とすなど茶飯事のことでした。

それでも風に恵まれたのか、玄宗の強い想いが届いたのかなんとか日本に辿り着いた一行、早速に楊貴妃が葬られた地を探しますが 何せ元々が夢のお告げのようなもの、明確な場所が示されているわけでもなく あちらこちらと探しますが一向に見つかりません。

渡海が季節の風に左右される時代、くる日もくる日も訪ね歩いても それらしき墓所が掴めぬまま帰国の期日だけが近づいてきます。 やむを得ず一行は朝廷官吏の伝を頼んで京都にある寺に二体の仏像を預け帰国の途についたそうです。

 

 

一行が唐に帰って数年の時が流れた頃、一片の知らせが朝廷へ届きます。
長門国(山口県)の天請寺 に昔、大陸から貴人の女性が流れ着いたものの当地で息絶え葬られたとのこと、唐からの一行のことを憶えていた朝廷は玄宗の想いを汲み、京都の寺に預け置いていたニ仏を早速 長門の天請寺へ移すよう指示を出しました。

ところが これに不承を示したのが当の京都のお寺、玄宗が唐随一の仏師に造らせたニ仏は既に寺のご本尊同様の扱いを受けており、多くの参拝者をも集めていました。
急にニ仏とも失ってしまったのでは寺の存亡にかかわるというのです。

寺の訴えにも一理あり、窮した朝廷は一計を案じました。
都で名高い仏師を呼び寄せるとニ仏に生き写しの仏像を二体造らせ、元々の内の一体と新たに造らせた一体を合わせて長門国 天請寺に、同じく残った元々の一体と新たな一体を京都の寺へ改めて納めることで納得させたのでした。

その上で皇の勅として「それぞれ尊き仏尊 二体祀り これより後は両寺ともニ尊院と名乗るが良い」と仰せられたのだそうです。

 

こうして 楊貴妃の墓所はようやく供養を深められるところとなり、玄宗の想いが届いた貴妃の魂は浄土に旅立ったのだと伝えられています。

玄宗自身も安史の乱が治まった後、数年の後にはこの世を去っているので程なくして貴妃と再開出来ているのかもしれませんね。

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楊貴妃と玄宗の物語はロマンと悲劇が入り交じった形で後世に語り継がれているために、様々な形で引用や脚色がなされ、こうした伝承が数多く生み出されました。

上の伝承で最初にニ仏を預けられた京都の寺院は、嵯峨野の清涼寺ともニ尊院(小倉山二尊教院華台寺)ともいわれていますが、どちらの寺にもその縁起に楊貴妃の名は見られず伝承との関わりは詳らかでありません。

どちらかと言うと 小倉山二尊教院華台寺にその名のごとく釈迦如来立像と阿弥陀如来立像の二体がご本尊として安置されているので、伝承の形作りに影響を与えているのかもしれませんね。

 

「傾国の美女」と謳われた楊貴妃でしたが、悪政を敷いたわけでもなく政治にもほとんど口を挟まなかったと言われており、結局のところ その器量と優しさに魅了され過ぎてしまった玄宗皇帝が政治を疎かにしてしまった結果なのでしょうか。

玄宗皇帝の前政は 専横政治を敷き悪評を招いた「武則天(則天武后)」の治める時代であり、唐朝の乱れた時でもありました。
武則天亡き後 唐朝を立て直した玄宗もその壮年時には善政をもって世を統治したと伝えられています。

 

 

世に屈指の美女として語り継がれる楊貴妃、その美貌から引き起こされた時代の動乱は あまりにも大きく また 劇的でもありますが、それ故にドラマティックに語られ後世にその面影を伝えているのです。

山口県 長門市 天請寺二尊院 に残る 楊貴妃の墓、同道していたのか侍女のものと思われる墓に守られながら、今日も西海、そして故国の方角を見つめ静かに佇んでいます。

 

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