傾国と謳われた貴妃 その終焉の地は何処(前)- 山口県


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「本州最西北端の安らぎの宿坊」 公式サイトのトップでそう謳っているのは、山口県長門市にある「二尊院」(にそんいん 正式名称:龍伏山天請寺二尊院) 日本海を臨む向津具半島*において 大同二年(807年)創建と伝わる寺院です。
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* 因みに “向津具” の読み方は “むかつく” と読みます。珍しい呼び名ですが「向国(むかつくに)」また「向津(むこうつ)」から転じたともいわれ、大陸に向く場所、日本海に向く場所の意味があったとされています。
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天台宗の開祖、最澄による開基とされ創建当初は天台宗として隆盛し、向津具の地に八ヶ所の僧坊と十五ヶ所の摂寺を擁する大きな寺院であったものの、その後の戦乱や世の趨勢に翻弄され、現在はかなり縮小された形でその佇まいを見せています。
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西北の最果てに息づく簡素な寺院に ひときわ異彩を放つ遺跡が「楊貴妃の墓」
今日はその伝承についてご案内します。

 

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楊貴妃(ようきひ 719年 – 756年)といえば 絶世の美女との誉れ高い 中国唐代の皇后ですね。 幼くして二親を亡くしたものの容姿に恵まれ舞や音曲に秀でていたため、唐の第6代皇帝 ”玄宗(げんそう)” の子 “李瑁(りぼう)” の后として入内しましたが、父帝に見初められ結果的に ”玄宗” の女官、ついには ”貴妃” の地位にまで上り詰めました。
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安寧を手にしたと思われた玄宗と楊貴妃でしたが、当時 政治そのものに興味を失っていた玄宗、そして楊貴妃の栄華に群がるように宮中に入り込んだ ”楊国忠” はじめ一族の放埒な政治介入のために国政は傾き始め、挙げ句、戯れに養子縁組した ”安禄山” が謀反を起こす ”安史の乱” が始まると首都 長安を放棄、敗走の末路を辿ります。
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そして、馬嵬(ばかい・現在の陝西省咸陽市興平市)にまで至ったとき、古参の臣下や疲弊しきった兵達によって楊国忠ら親族らは誅殺され、さらに楊貴妃そのものに傾国の責有りとして処刑を強訴された玄宗は「貴妃は後宮にあり事変の責はない」と反したものの庇いきれず処刑を決断、756年7月、楊貴妃はこの地でその生涯を閉じることとなりました。

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馬嵬 の地で露と消えたはずの楊貴妃、馬嵬には貴妃の立派な墓が現在も祀られています。 その楊貴妃の墓が日本のそれも山口県にあるというのは どういった理由からなのでしょうか・・
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とりも直さず それは寓話の域でもあろう伝承の類となりますが、まずは事変の後、貴妃の死を悼みながらもようよう長安に帰ることの出来た玄宗がある夜見た夢からお話を始めましょう

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戦を起こし、洛陽、長安を制圧、新たに ”燕国” を建て、自ら ”聖武皇帝” を名乗った安禄山でしたが、行いの悪さからか程なくして病床の身となり、建国から一年も経たぬ内に実の子に殺害されるという憂き目に遭います。
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歴史の流れというものは得てして そういうものですが、謀反により前政権を倒し手に入れた栄光は長続きすることが少なく、カリスマであった安禄山を失った ”燕国” はその後も内部抗争・分裂により急激に弱体化してゆきました。
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反抗に出た唐の軍勢およびそれに呼応したウイグル勢の軍は15万にも達し賊軍の大半を撃破、程なくして長安は開放され 既に皇位を息子に移譲していた玄宗も都へ帰着します。
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安史の乱(安禄山の乱)は治まり ようやく静けさを取り戻した唐でしたが、楊貴妃を失った玄宗の心の痛みは深く、傷心の想いを引き摺りながら日々を過ごしていたと伝わります。
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そんな 玄宗がある夜、うつつに包まれながら見た夢が広大に広がる東海の海でした。
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どこまでも続く海の遥か彼方、水平線の向こうが不意に光ったかと思うと そこから一羽の燃えるような赤い鳥が現れ玄宗の方へ真っすぐと翔んでくるではありませんか。
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その光景を呆然としながら見守る玄宗のもとへ赤い鳥は降り立ったかと思うと、ふっと姿を変えました。 そこに立っていたのは愛しき楊貴妃だったのです。
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「貴妃! 貴妃ではないか! お前は何故ここに・・」呻くように語りかける玄宗。
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「お前を守ってやれなかった私を さぞ恨んでいることであろう・・」
悔恨に胸を詰まらせながら見上げる玄宗を 柔らかい指先でそっと制し貴妃はこう言ったのです。
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「陛下、私はあの日馬嵬で処刑されたとお覚えでしょうが、実はあの時 私を逃してくれる者がいたのです」
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「何と!? ならば 今お前は生きているのか? 今、何処に居るのだ?」
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驚き、そして顔輝かせる玄宗に、しかし 楊貴妃は悲しげな面持ちで・・
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「私はその者に導かれ あの地を後に逃げに逃げました・・」
「そして海辺の町までくると小さな船を借り、遠く東の国へと渡ったのでございます」
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「東の国だと・・?」
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「しかし、何とかその国まで辿り着いたものの、逃避の旅に疲れ切っていた私はその地で病に倒れてしまいました・・」
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「地元の優しい人達は言葉も通じぬ私をもてなし、倒れた後も篤く介抱してもくれましたが、無念ながら私はその地で命潰えたのです・・」
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「何ということだ・・・」処刑を逃れながらもなお哀れな死に方をさせてしまったと嘆く玄宗に・・
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「私が死んだことに陛下を一度たりとも恨んだことはございません・・」
「されど ここは異国の地、私を哀れとお思いならば一片の供養をしてくださいまし」
「されば 私は晴れて浄土へ渡ることが出来、いつかは陛下と再会することも叶いましょう・・・・」
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それだけ言い残すと楊貴妃の姿は霞のように消えていったのだそうです。

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夢から醒めた玄宗はこれは神仏の導きであろうと深く心に刻み、腹心の部下を呼ぶと直ちに高名な仏師を招き、二体の仏像を彫らせると これを持って東国に渡らせたのだそうです。
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只、この仏像と使者の旅も首尾よくは進みませんでした・・・

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