10月に消費税増税が予定されていますね・・
中国経済の減速などの影響も相まって日銀短観の下方修正、内外ともにあまり喜ばしい話も無いためか、ここにきて参院選の都合もありまたまた延期するだのしないだのと議論百出のようですが・・
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まあ 少々延期されたところで、いつか上がるなら同じことと言えば同じことなんですが、我々小市民にとって増税はなるべくなら避けてほしいもの、先送りしてほしいものというのが正直なところですかね。
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納税、憲法にあって国民の三大義務の中のひとつとして「法の定めるところにより納税の義務を負ふ」と定められたもの。
多くの人間が集まって国家を形成し、国を運営してゆこうとする限りその運営に掛かる費用が必要であり、これを賄うものの財源が即ち税収となります。 また それは同時に国に流通する通貨経済を担保するという側面をも持ち合わせています。
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それは近代国家のみならず、紀元前3世紀に始まった古代エジプトにおいても既に基本的な税制は確立されていたというから驚きですね。
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近代以前(ようするに昔の)租税といえば、その多くが穀物もしくはその地方の特産物などによる物品納税、そして労役や兵役に献務する労働納税のいずれかでした。
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日本では明治6年から着手した大規模な税制改革「地租改正」において、それまでの物品・労働納税が廃止され、以後、徐々に近代税制へ変革されていったわけですが、それまでの税制、江戸時代の税制とはどんなものだったのでしょう。
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そもそも江戸時代初期には明確かつ全国的な税制というものが確立しておらず、天領でもあった佐渡などによる金銀銅の鉱石産出が豊富であったこともあり、課税そのものにあまり熱心でなかったようです。産出量が降下した江戸中期から財政が傾き、税制の整備に力を注ぐようになりました。
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江戸時代の税制というと時代劇などの影響もあって、思い起こされるのはやはり「年貢」ですね。お百姓さんが一生懸命作った農作物の大半をお上からかすめ取られてしまう といったイメージが強いですね。
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「年貢」と一口に言っても、現実的には大きく分けて年貢(本途物成 ほんとものなり)と諸役(本途物成以外の物品納税 および使役)の二つで構成されていました。
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お百姓さんに課される「年貢」に対して、いわゆる町人に課される税というものはほとんど無かったとも言われます。
随分と不公平な感じがしますが、田畑や収穫量といった基準が算定しにくい町人の収入が把握しきれなかった という側面もあるようです。
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弥生時代にその原型が生まれ 奈良時代には租庸調(そようちょう 学校で習いましたねw)その他の税制として確立・発展してきた我が国の税制ですが、江戸時代には物品納税である「物成」または金銭による納税の比率が高まっていました。
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現代的な経済モデルへの移行が進みつつあったからに他なりませんが、既に通貨も流通していたにもかかわらず、年貢の納付も また給料も配給もそのほとんどは米でした。
当時は「米」と「通貨」はほぼ同義といってよい状態だったので「米」を制するものが天下を制するといっても過言ではなかった状況だったようです。
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以前の記事「改革と人情が残したもの 大岡越前祭」の中に出てきた「享保の改革」でも、悪化した幕府財政の立て直しのために「年貢」を強化するというものがあります。
それまでの四公六民から五公五民へ増税されてしまったのですが、実際の負担額は倍額に匹敵する大増税となってしまい、幕府の財政は建て直され 都市整備や公共制度の充実、行政の刷新はなったものの、農民をはじめとする多くの国民の負担は過大で一揆も頻発、後に改革の一部見直しにも至り 幕府に対する政治不信にもつながっています。
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結果的に長い目で見れば、日本の歴史において経済のみならず 社会制度全体においてもメリットの多かった改革として歴史に名を残すこととなりますが、やはり増税の最中にいる者にとっては辛い時代であることに変わりはありませんね。
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ここまで読みますと やはり「年貢=過大な負担」といったイメージが強いですが、全てが全てその調子といったわけでもなく、実際、江戸時代には幕府であった江戸とその他の藩ではそれぞれに状況も異なり また 課税の割合もバラバラであったようで、検地も査察も行き届かない時代にあっては、実際の収穫量に課税が全く見合っていなかった地域も相当数あったようで、全体的には良くも悪くもユルい時代であったことが伺われます。
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村にあっては、名主・組頭・百姓代 の三役が決められ 名主は村を取りまとめ お上に年貢を納めるための代表者、百姓代は各戸の出来高からその納付量を名主やその補佐である組頭に掛け合う立場であったといわれています。
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年貢の割合を減らしてもらうための役人への接待やその他ゴニョゴニョも日常的に行われていたようで、まあこの辺りの実情も、良くも悪くもユル・・ということになりますかね。
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時代が下るにつれて米本位経済から貨幣経済へと進み、明治時代に至って富国強兵が急務であった明治政府は実態が曖昧な「物品納税」を全て廃止し、正確な検地を基とした「地租」課税を強行に推し進めてゆきますが、やはりこの時も多くの波乱を生み出します。
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当初、自己申告制にしていた「検地申告 / 自分の田畑の大きさと収穫量の申告」ですが、これだと どうしても小さく少なく申告されてしまい、予定の税収見込みに遠く及ばない状況に・・
それならばと強制検地に踏み切ると今度は全国各地で農民との衝突、挙げ句には暴動まで起こる事態となってしまいました。「地租改正」が完了し新しい国家の財政基盤が見据えられるようになるまでに7年もの月日がかかったといわれます。
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まあ どうあっても そこは人間、課税・徴税する立場から言えば「少しでも多くキッチリと」
課税される立場から言えば「少しでも少なくヤンワリと」になってしまうものですが、大事なのは適正な税率と公平な課税、そしてそれがどう使われているのかという開示性と透明性ではないでしょうか。
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そんな事は百も承知と言われるでしょうが、それが十全になされていないのも事実、
日本は世界的に見ても税率の高い国と言われています。ならば 尚のこと”どう使うのか” ”どう使われたのか” をもっと明確になされなければ国民の信任は得難いでしょう。
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「痛みを伴う改革」とは どこかの国の政治家がよく使う言葉ですが、結果はともかくとして その言葉が単なる使い回しの良い言葉と成り下がってしまわないように願うばかりです。