加賀忍者寺に紡ぐ歴史と妙なる異聞 – 後

金沢城下に佇む妙なる寺院、日蓮宗『妙立寺』のお話を前回お届けしました。 戦乱の最中から一時の安定の時、そしてさらなる万世安泰の時代に向けて揺籃の時代に生まれた必定にして奇矯の寺。。それは人と時代の要請であったのかもしれません。

有事、できれば避けたい最悪の事態に備えて工夫された妙立寺でありましたが、創建から既に400年。その間には社会の変遷、時代の振幅にあわせて新たな風聞や逸話も生まれてきます。

本日はそういった『妙立寺 異聞』をお伝えしたいと思います・・。

 

『眞龍院の寺』(しんりゅういん のてら)

江戸時代も後期、加賀百万石・12代藩主※前田斉広(なりなが)治世のお話・・。

文化年間、斉広公の継室(後妻)として輿入れしたのが夙姫(あさひめ)であった。この時二十歳。 左大臣も務めた公家 鷹司家の出自であり家柄としては申し分なく、また美貌に恵まれるとともに知性品性さらに人柄にも優れ人々から慕われるという、まことに貴婦人の鑑のような女性であったという・・。

只ひとつ悲しきは輿入れして後、斉広公との間に子に恵まれなかったことである。公との仲は悪くはなかったが、当初の期待も虚しく時の過ぎるに頼んでも子は授からない。

側室には子ができていたため前田家の継承に問題はなかったが、妻として、ひとりの女性として心寂しい想いを抱えていたであろう・・。

年月は流れ、継嗣である斉泰に藩主の座を譲り隠居になった斉広公であったが、その二年後にこの世を去った。

夙姫は髪を落として落飾し “眞龍院” と号した。

夫が完成させた名勝 “兼六園”、その傍らに用意された住まい “巽御殿” に移り住んでからは概ね安らかな日を過ごしたが、それでも血のつながる者を持たぬ寂しさは如何ともし難いものでもあったと・・。

そんな眞龍院の心を埋めた唯一のものが信心。輿入れ前より日蓮宗の信徒であった眞龍院はほど近い妙立寺に通い手を合わせる。 ことに祖師堂に安置されていた日像上人による “日蓮坐像” の前に座するとき、何物にも代え難い安寧の気持ちに満たされた。

されど・・眞龍院は足繁く妙立寺に通いうことを願ったが、それには少々 差し障りもあった。 熱心な日蓮宗信徒であった眞龍院ではあったが、加賀前田家の代々宗派は曹洞宗だったのである。

落飾したとはいえ先代藩主の正妻、参拝の用であっても相応の伴を引き連れてのこととなり、また寺社奉行の監督下という建前となり公然と異宗派の寺へ日参することは憚られた。 畢竟 “内々” での通いとなる・・。

それでも眞龍院としては構わなかったが、困ったのが妙立寺の方。
大きな支援者でもある眞龍院の参拝は願ってもないことであったが、”内々” で・・となると勝手が違う。 ”内々” といったところでそれなりの伴があり、さらにそれらを人目につかないように計らわなければならない。他の門人や信徒の手前 中々に難しい手筈であり、それは眞龍院にも伝わっていた・・。

 

願いながらも叶え難い眞龍院と妙立寺の間柄であったが、それはある日 突然の解決を見ることとなる。 小さな失火をもとに妙立寺が全焼してしまったのだ。

普通なら頭を抱えてしまう厄災だが 此度は別である。
元治二年、消失から間を置かずして妙立寺は再興された。再建費用の大半を眞龍院が担ったことは言うまでもない。

しかも今度は眞龍院はじめ伴の者たちが人知れず堂内を移動する隠し通路や、ゆっくりと休める多くの隠し部屋が盛り込まれての再建となった。眞龍院にとっても妙立寺にとっても有り難く最善の形となった。

再興された妙立寺、日蓮像の前で心置きなく仏道に身を委ねた眞龍院は幕末の時を超え、明治3年84歳の生涯を終えた。 後に残ったのがこの奇矯な造りの寺院「妙立寺」なのである・・。

お忍びで礼拝する眞龍院(伊藤晴雨 画)と昭和前期の妙立寺内部

※(お話原文より)前田家12代 であり加賀藩主としては11代目です。
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相対的によく出来た話だとは思いますが、時代設定も幕末に近い頃、為政者ではなくその妻・未亡人の信心による再建話であり、前回お届けした前田利常による前線基地話とは全く異なる内容となっています。

民話や伝承には様々な類型が派生するものですが、今話に関しては類型ではなく完全な “異聞” といえるでしょう。

只、史実的に見た場合 前回の創建譚の方が歴史的にも事実に近く、一般的にも認知されている話であり、今回の異聞は後世に創作されたものではないかと思われます。 もしかすると江戸の安定期に入って後、ややも漏れ出す(当時は最高機密であったろう)前線基地話を払拭するための何らかの異聞がその頃からあり、それらを温床として幕末〜明治期に出来上がったものなのかもしれませんね。

 

とはいえ、今話登場のヒロイン “眞龍院 / 夙姫” ですが 全くの創作・架空の人というわけではなく、加賀11代藩主 前田斉広の継室として輿入れされたのは事実です。

お話では顕になりませんでしたが、当時 斉広公は江戸の屋敷住まいであったため、夙姫も輿入れは京から江戸屋敷にであり加賀(石川県)には住んでいませんでした。

しかし、輿入れ直後に起こった金沢の大火や処々の都合により斉広公は単身帰国状態となることが多く、夫婦として過ごした時間はあまり多くなかったといいます。子を設けること叶わなかったのもお話のとおり。 そしてそうこうする内に時は流れ斉広公は逝去、夙姫(当時は隆子)は未亡人となって “眞龍院” へと落飾します。

第11代加賀藩主 前田斉広

加賀藩への帰国願いが叶い金沢入りしたのが天保9年、輿入れ後 実に31年後のことだったといいます。

 

お話にも出てきましたが眞龍院は 知性・品格ともに優れ、また人から慕われる心根を持っていた人のようで、事実上 初めてといえる金沢での暮らしにおいても彼女を粗略に扱う者はいなかったようです。

直接 血のつながりのない12代藩主・前田斉泰も、幼い頃から眞龍院に色々と教わり敬愛していた故か二の丸での住まいを許し、その後には兼六園の袂に嫡母の専用住まいである『巽御殿』を建てたのも斉泰の計らいです。母の出自である鷹司家の通称 “辰巳” から名付けられました。

造営にも工夫が凝らされており、”謁見の間” や “鮎の廊下” には亡き夫 斉広公が隠居所として使っていた「竹澤御殿」のものをわざわざ移築して拵え、”書見の間” には母の気が晴れるようにとでも考えたのかヨーロッパから取り寄せた顔料を用い、当時としては極めて珍しい抜けるような鮮やかな “青色天井” としています。

画像 © (公財)成巽閣

他にも多数の技巧を凝らした “気遣いの館” ともいえる「巽御殿」。現在は国指定重要文化財『成巽閣』(せいそんかく)として目にすることができます。ぜひご自身の目で 在りし日の金沢の趣きを堪能してみてください。

また、”内々” であったかどうかはともかくw、眞龍院が「妙立寺」に崇敬を寄せていたのも確かなようで、火災があった後、こちらにも「竹澤御殿」から正門が移築利用されています。当寺の方もお忘れなくご参観あれ・・。

『妙立寺』公式サイト

『成巽閣』公式サイト

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