加賀忍者寺に紡ぐ歴史と妙なる異聞 – 前

秋も日毎に深まり肌寒い日も数えるようになりました。山々が紅葉に染まる季節も到来、北海道の一部では既に落葉が始まっており、東北・信州辺りでは今が見頃。そして北陸地方なら11月中に彩り鮮やかな日が訪れるようです。

2015年に北陸新幹線が高崎(群馬県)〜金沢(石川県)間が開通して後、東京から石川県への連絡も便利になりました。現在は2024年3月の開業を目指して金沢〜敦賀(福井県)間の整備が進められています。 いずれは敦賀〜京都〜大阪への連絡が完成し、東京〜大阪間 北周りのルートが出来上がるのでしょう。

秋から冬にかけての北陸は雪で真白に閉じる前の行楽のひととき、”兼六園” や “玉泉院丸庭園(金沢城公園)” の紅葉・夜間ライトアップを目に感動し、夜は山海の珍味に舌鼓を打つ・・。大人の旅の設えですね。

 

その兼六園や金沢城から市街地中央を流れる犀川(さいがわ)を隔てたところに、世に知られた異風の寺院『妙立寺(みょうりゅうじ)』があります。山号は正久山、日像上人による日蓮宗のお寺。 異風・・別名『忍者寺』とも呼ばれています・・。

今日見る「妙立寺」の姿、”日蓮大菩薩奉安” の石柱の向こうに建つ少々 豪壮と思える門構えを除いては、一見どこにでもありそうな普通のお寺にしか見えません。・・しかし その内容は僧園にあるまじき異形の造りと工夫を凝らされた装備、意表を突く移動路などが張り巡らされた “カラクリ屋敷” なのです。 ”忍者寺” というのは そのカラクリの様から呼ばれたもので、忍者が逗留していたわけではありません。

一見 二階建てに見える本堂は、内部に入ると実は4階建て7層に区切られており、部屋数は何と23にも及びます。 本堂屋根の天頂部にある飾り屋根は、当時として珍しいガラス張りで加賀平野を一望できる上に、龕灯(がんどう)を用いて金沢城との通信もできたと伝えられており、事実であったとすれば驚きの技術ですね。

堂内、また境内には様々な隠し通路や移動手段が施され、一説には境内の井戸から城まで続く地下通路さえあるという伝承も残っています。

他にも “落とし穴” や “武者返し”、挙げ句、自刃用の隠し部屋まで用意されているそうですから、並の忍者屋敷も真っ青な内容。寺院であるのに、まるで前線基地の様相・・。 そう、妙立寺は戦うために造られたお寺であったのです・・。

 

妙立寺がこのような拵えとなった背景には、当時の加賀藩の事情が反映されています。

信長・秀吉らから重用され、豊臣政権にあって五大老筆頭の一角を担い、加賀百万石の礎ともなった “前田利家” でしたが、秀吉亡き後 急速に自らの権力掌握に動く “徳川家康” との間に軋轢が生じてきます。

既に(当時としては)高齢に達し病も得ていたため、家康が翻意を顕にする頃には他界していましたが、一旦 和睦していたはずの利家が逝去するや “加賀征伐(加賀藩への侵攻)” の建議が持ち出されるなど、家康による加賀 / 前田家への権謀は高まっていき、時代は再び不穏な空気をまとうようになりました。

利家の跡を継いだ長男 “前田利長” は、かかる家康からの圧力に抗しながら未来への選択を迫られる形となります。家内においても抗戦・恭順の意見が割れる中、その統制に苦慮しながらも加賀前田家の永続を最優先に考え、家康に順じてゆく道を選びます。

前田利家(左) 前田利長(右)

近年の説において利長は先見に優れた人で、当初から家康との協調路線を模索していたともいわれ、加賀征伐も実際に建議されたものかどうか不明という見方もありますが・・、この時期に亡き利家の妻であり利長の母である “まつ” が家康側へ人質として出されているのも事実であり、どちらにせよ加賀藩にとって容易ならざる時期であったのではないでしょうか・・。

 

関ヶ原の戦い・大阪の役と天下を揺るがす大戦を経て、世が家康の掌中へと流れてゆく中、加賀前田家は何とか家康と歩調を合わせるよう立ち振る舞い 加賀百万石の地盤固めに腐心していきます。

家康からすれば 五大老時代以来、最大のライバルを早々に粛清したいのは山々なれど、もとより外交力が高く諸大名とのつながりも深かった前田家の力は安易に排除できるものでもなく、相応の処遇と牽制を使い分けながら隙あらば “取り潰し” に持ち込みたい・・難しい舵取りであったのかもしれません・・。

利長の跡を継いで3代加賀前田家(2代加賀藩主)となった “前田利常” の時代になっても、その暗雲が完全に拭われることは叶いませんでした。慶長年間、大阪の役に若干二十歳で参戦したときも “四国全域” 領有の話を家康に勧められ これを固辞しています。戦功に見合わぬ報奨をもってしても前田家を一旦 加賀の地から外したかったのでしょうか・・?

金沢城と前田利常

真偽のほどは定かではありませんが、その家康の晩年、今わの際を見舞った利常に 家康がかけた言葉が空恐ろしいものでもありました。Wikipediaの記述を借りてここに残しておきましょう。

〜「お手前を殺すよう たびたび将軍(息子の徳川秀忠)に申し出たが、将軍はこれに同意せず何らの手も打たなかった。それゆえ我に対する恩義は少しも感じなくてよいが、将軍の厚恩を肝に銘じよ」(懐恵夜話)。〜

 

昨日の友が今日の敵 その逆もまた可なり。血で血を洗う戦国の世。なかんずく天下に手を掛けるような覇者にあっては、その政権安定ひいては天下静謐のため、非情なる謀略を凝らすのもまた覇道の一面なのでしょうが、それを向こうに回して立ち回る側も常に緊張の連続です。

相手の術中に陥れば、改易、下手をすれば家格の取り潰し。そしてそれに抗しようとするならば勝つ見込み薄い戦の時・・と、”お城住まいの御殿様” といえど気の休まる暇がありませんね。

前田家のDNAでもあるのでしょうか、利常も聡明な思慮人柄であったようで藩内における商・農業の発展奨励に尽くし加賀百万石の礎を固めるとともに、こうした幕府からの警戒・圧力に対しては時に呆けを演じてまで巧みに交わし続けたそうです。

この時期に幕府との姻戚関係を強め、同時に先代で出した義母・”芳春院・まつ” と入れ替わるように、自らの母 “寿福院” を人質に出しています。

一方で、どうしても避けられない事態を迎えてしまった場合の、有効な戦略基地としての “忍者寺”「妙立寺」であったのでしょう。 元々金沢城の近くにあった妙立寺を 川を隔てた前線位置に移築してまでこれを築き上げています。

冬には北陸の地を埋め尽くす豪雪に耐える剛健な寺院。数十人の武士が待機でき常在戦場を彷彿とさせる端厳の館。そしてそこは機能だけが詰め込まれた建物ではなく、歴代藩主が参拝する祈願寺でもあり日蓮の教えを伝える聖域でもあります。

その聖域にまで工夫を凝らして有事に備えなければならない時代・・。大きな時のうねりに抗う人々の思いと術を今に伝える・・これもまた名刹の一院といえるのでしょう。

ところで、この「妙立寺」の創建に関しては、一般に流布する今回のお話と全く異なる “異聞” が存在します。 次回ではそのご案内をさせれいただく予定です。暫しのお待ちを・・。

『妙立寺』 公式サイト

※ ご承知のとおり 現在 コロナウイルス感染症問題に関連して、各地の行楽地・アミューズメント施設などでは その対策を実施中です。 それらの場所へお出かけの際は事前の体調管理・マスクや消毒対策の準備を整えられた上、各施設の対策にご協力の程お願い致します。 また これらの諸問題から施設の休館やイベントの中止なども予想されますので、お出掛け直前のご確認をお勧め致します。

お願い:運営状況、イベント等ご紹介記事の詳細やご質問については各開催先へお問い合わせ下さい。当サイトは運営内容に関する変更や中止、参加によるトラブル等の責務を負えません。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください