巫女は微笑みて戦乱の世を渡る – 後編

巫女さんは人気ですね。
昭和の時代くらいまでは取り立てて人気というほどでもありませんでしたが、漫画やライトノベル、映画やアニメで主要なキャラクターとして用いられるようになって以降、それらの世界のみならず現実社会においても持て囃される存在となりました。

純潔を表す白衣(はくえ / しらぎぬ)生命にもつながる緋袴(ひばかま)、白と赤(緋色)のコントラストは簡潔にして人目を惹き、神性のイメージも手伝って人気の職業ともなっています。(但し現在の巫女さんは “神職” ではありません)

只、古き時代においては、敬愛はされつつ 必ずしも好まれた職業とは言えなかったようです。 神に関わる者とされたが故に一般の暮らしからは隔たった存在であり、”神降ろし” などとも呼ばれて畏れられる人でもありました。

“神降ろし” 神や死者など異界の者に通じて口寄せを行う者。 海外にも古から存在し、言われるところの “シャーマン / シャーマニズム” に拠るものであり、巫女の根源を指すものでもあります。

現在、神社の神職の多くを男性が務めていますが・・、伝説の存在でもある “卑弥呼 / ヒミコ” が 巫女のはじめともいわれるように、神と人をつないだ最初の人は女性だったのかもしれませんね・・。

 

さて、近江望月家から縁も深い信濃望月家に嫁いだ “千代” でしたが・・。 甲斐 武田氏が諏訪を平定し 信濃国全域にその勢力を拡げてゆく中で、夫、望月盛時(もちづきもりとき)も武田信玄への帰順を決め、武田勢の一角を担うところとなります。

武力拡大を続けていた信玄の軍は、まさに破竹の勢いで西方・北方面への覇権を進めていましたが、当然のように発生する軋轢の数々。 ついには信濃の北に国境を接する越後国、上杉謙信との間に 五度に渡る “川中島の合戦” が引き起こされる事態となりました。

武田晴信(信玄)像(高野山持明院蔵)

結果的に、武田側は大きな被害を被りながらも川中島までの領土獲得。上杉側は自国への敵軍侵入阻止・排除をもって両軍引き際を決め、それぞれに勝利を謳うところとなりましたが・・。

その第四次川中島合戦の最中、千代の夫 盛時は上杉軍の簗田外記(やなだげき)との死闘むなしく、戦死してしまったのです・・。

 

諏訪望月氏は平安時代から続く信濃国の有力国人であり、まだ信玄が諏訪の平定に時を費やしていた頃、盛時の帰順は武田氏の覇権に大きく寄与し その後の働きも良かったことで、信玄から信認を得ていました。

未亡の身となった望月千代・・、この時代 夫亡き後の妻は出家して菩提を弔う身となることの多かった中、主家である信玄はそれをさせず、千代に甲斐と信濃二国の神女頭(しんにょがしら)を任じました。 千代の後生を安ずるためであると同時に、千代が持つ素質を見抜いていたのでしょうか・・。

諏訪から祢津(ねつ)の地に移り居を定めた千代は、信玄の後ろ盾のもと巫女村を形成し、そこで数多の “歩き巫女” を育成したと伝えられます。

祢津地域 現在の東御市

この記事の主題であり 前編でも触れた “歩き巫女”、国を出て全国を行脚しながら行く先々で、諏訪信仰の布教に務めるとともに神事・口寄せなどを行い、その地の人々から有難がられたそうです。 病気や天候不順などの多くが、神の意志や祖先の祟りと畏れられた時代ならではの生業ともいえますね。

 

只、当然・・とでもいうか・・、神事のみを目的としていたのではなさそうです。ここが武田信玄の見識・先見性の高さとでもいえるでしょうか。

“戦わずして勝つ” の言葉どおり、極力 自軍の損失を抑えながら効果的に勝利を掴むことを標榜していた信玄は、事を構える以前から他国に関する様々な情報収集に余念がありませんでした。孫子の兵法 “敵を知り己を知れば百戦危うからず” を実践していた武将でもあったのでしょう。

全国の情報を集める役を担ったのは “三ツ者” や “透破” と呼ばれた忍者=間者ですが、より自然に効率よく、そして広く情報を採集したのが “歩き巫女” たちであったようです。活動範囲は遠く下野の先から西は機内の向こうにまで及んでいたといわれます。

大半は民間と関わるため軍事機密や城郭の構造など、高度機密に触れることは稀であったでしょうが、その国の経済動向、気候と農作の出来不出来、噂による領主たちの醜聞など、国力の趨勢や方向性を推し量るに重要な情報だったのではないでしょうか。

巫女といっても信濃・諏訪の地だけで人材が賄えるわけではなく、そして外し難い要件として若く美しい女性が求められました。

“歩き巫女” やその頭目が巡行するとき、各地でまだ幼く見目の良い少女を見出しては親に取り成し、信濃国に連れ帰って養育とともに “歩き巫女” としての教育・鍛錬を施していったのだとか。
悲しい話でもありますが、古来、飢饉に見舞われた村などで女児の養育は難しく、口減らしの意味も絡んでいたのでしょう・・。

若く美しい女性・・。あまり書きたくはありませんが・・、そういうことです。女性相手には使えませんが 男性相手には極めて有効な調略手段です・・。 ”歩き巫女” に限らず、古来の神性が薄れ放蕩を成していた巫女たちの中には、そういった生業生活をしていた者もいたため、その習性をも生かした諜報活動を駆使することもあったようです。

近年、国の高官が某国女性諜報員のハニートラップにかかって・・という事件がありましたが、昔も今もこの手の調略に男性が弱いのは、古今東西 変わらぬ事例といえますかね・・。

 

「望月千代女」の実在性や真実をどこまで問えるのか? と言われれば、それは未知数と言わざるを得ません。

しかし、武田信玄が情報の収集を極めて重要視していたのは確かですし、軍師であった “山本勘助” でさえ、その行動範囲の広さから間者的な働きをしていたと語られるほどですから、数多の諜報員を抱えていたのは事実でしょう。

とはいえ、直接、千代女 本人が他国を行脚して情報の収集や、まして忍者刀を振り回していたとは考え難いでしょうし、前編でも触れた甲賀の出自故に描かれる千代女 くノ一像は、あくまでフィクションの中の千代女でしかないのです。

信玄から信認され大事にされたと伝わる望月千代女・・。 つまるところ、彼女は自らの資質を活かしながら、戦の世を生きる弱く儚い女性たちに、歩き続ける術を施していった頭領であり、母のような存在だったのでは・・? と思うのです。

現代の目から見れば 過酷であったり、卑怯であったり、時に淫靡であったりと、とても容認できない人生に見えても、その時代にあっては先ずは生きることが先決。 数ヶ月を通して旅流れの暮らしであっても日々の糧、帰るべき場所があるのは まだ救われた身といえるのでしょうか。

今よりも遥かに、生きる力も生きる意志も強かった時代、千代に育てられた彼女たちは、明日をも知れぬ道を、時に不敵に微笑みながら歩いていたのかもしれません・・。

 

 

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