人に近し鬼は赤倉にあって恩を積む – 後編

さても 人に近し鬼のお話後編です。
そもそも人間社会に災いもたらす代表格ともいえる “鬼” 。
“鬼” は 元々 “隠(おん・おぬ)” の読みが転訛したものといわれ、元来 その姿は判然とせず、病や禍をもたらす暗き凶事そのものでありました。

道教や儒教、陰陽道、そして仏教、神道と幾多の交わりを持ちながら民草の口に膾炙して、数多の伝承や芸能・物語に織り込まれる内に “本質は脅威” ながらも、そこに “人との関わりを” 濃厚に反映した姿へと変貌を遂げていきます。 現在 一般に知られる “角” “金棒” “虎皮の腰巻き” といったイメージは、その中で作られてきたものといえるでしょう。

それは 時代とともに移り変わってゆく “鬼” の中に、人が自らの姿を見たからなのかもしれません。 “鬼” は何処からともなくやって来るのではなく、人の内に宿っているものなのです。 故に、時代が下るにつれ 鬼はますます人間そのものに近づき、やがて “親しみやすさ” さえ身に纏うようになっていったのかもしれませんね・・。

さて、親しんだ鬼に、耕地の水不足を相談した弥十郎でしたが、翌朝 目を覚ましてみると、そこには驚きの光景が広がっていました・・。

 

『赤倉の鬼』 後編

一晩 寝て起きてみれば あれほど枯れていた水路も田圃も蕩々と水を湛えている  弥十郎 驚いたのなんの・・

ともあれ この水は いったい何処から流れて来るのだろう・・

弥十郎 些かも辿ってみるに 林を抜け山肌を縫うように走る水路は 赤倉の険しい山腹を跨ぎ 岩塊ひしめく王余魚沢に流れて 所々には逆堰さえ設けて巌鬼の源流に届くであろう長大なものであったと

如何な 鬼の所業といえど これだけのものを たった一晩で築き上げてしまうとは・・

日頃 相撲を取って遊ぶなど 人と同じき友人のように思うておったが やはり赤倉の鬼は超常の力を奮う鬼神なのだと 改めて思い知った弥十郎であったそうな

されど 鬼の方は そのようなこと気にもかけぬ様子で
時折には金先 三尺もあろう鍬を振り上げて 新畑を耕す弥十郎を助けてくれたのだと

おかげで 弥十郎の田畑は広々と拓け すこぶる実りに恵まれた

「ほんに有難うがんした おかげで米も野菜も沢山とれたはんで!」
「ここまで来れたんも あんさのおかげだ ひとつ酒と御馳走でも作ってもてなすで オラん家さ来てけろ」

お礼の意味を込めて ある日弥十郎は鬼にこう言うたそうな

ところが鬼の方といえば 何やら神妙な面持ちで・・

「行くには行ってもええが これでもワシは山の遣いだで 女子(おなご)の気を遠ざけねばならん」
「ワシが行く間 お前の女房らを家から出して酒肴もお前が自分で整えて出してけろ」
と言う

「なるほど んだばオラの手料理で上手くはねぇだども まんず来てみてけれ」

こうして弥十郎は鬼を自分の家に招くことになった

 

弥十郎は鬼に言われたとおり 鬼が来る日は女房子供に用事を言付け家の外に出した
自分で食材を洗い切り分け料理した 酒もたくさん添えて鬼に振る舞うと鬼はことのほか喜び それから ちょくちょく弥十郎の家に遊びに来るようになったのだと

ところが この成り行きを不審に思ったのが女房・・

弥十郎は鬼との約束を守って女房子供を家から出しておったが ことの詳しきを一切話しておらなんだので女房の疑いを招いてしもうた

(おどさ 時々オラたちのこと 何処さと追い払うて誰かに御馳走してるども 誰さ呼んでるんべな・・ まさかオラたちの留守に他所の女子でも引っ張り込んでるではねえべな・・)

頭に浮かんだ不審は日毎に大きゅうなってしまい
ある日 とうとう 外に出ているふりをして そっと家に戻ると 戸の隙間から酒肴に興じる鬼の姿を覗き見してしもうた

 

しかし 鬼は女子の気をすかさず感じ取り血相を変えた

「女子に近づかれたからにゃ 我が身も汚れてしもうた・・ これでもう ここには来られねぇ」
「まぁそれでも お前と親しゅうして楽しかったで これを形見に置いてゆく・・」

それだけ言い残すと 持っていた蓑笠と大鍬をそこに置いて山へ帰ってしまい
それきり二度と姿を現すことはなかったのだと・・

 

鬼が引いてくれた水路は弥十郎の土地だけでなく 村の全ての田畑を潤したので
以後 この村が水に困ることは無うなった

村人たちは 鬼が施してくれた水利に感謝して 赤倉山に鬼神大権現を建て 村の名も鬼沢村とした

また 鬼が立ち去る前に

今後も村を守ってやるで 端午の節句には菖蒲を葺かず 節分には豆を撒かぬように という言いつけを今も守り続けているそうな・・

 

 

あらかじめ 鬼とのいきさつを女房に話しておけば良かったのでは?とも思えますが、そこはそれ色々と都合もあったのでしょう・・。 まぁ結果オーライということで・・w。

弥十郎はじめ 村人たちが住む “鬼沢” は現在もその地名が残っています。そして村人たちが建立したという “赤倉山鬼神大権現” は後に社名を変え「鬼神社」となったそうなのですが・・、実は長年イナバナ.コムをご訪問頂いている皆様にはお気づきのことかと思いますが、2018年12月3日の記事でそれを取り上げていました。 “鬼” の文字の頭に ” ’ ” が付いていない「鬼神社」です。

今回のお話でも 2018年の記事でも、登場する鬼は基本 人にあまり害を及ぼす描写がありません。何しろ最終的に人から祀られるほどですから・・。

 

ここでいう “鬼” とは何だったのかを考えてみると、冒頭でも触れたように、やはり “人” だったのではないでしょうか。

ひとつには、当時まだ蝦夷地の一角であった東北を平定した “坂上田村麻呂” のような人物。平定といえば聞こえが良いですが、当地の人から見れば侵略者でもあったわけですから “鬼” の面もあったでしょう。 しかし 制圧後、この地に機内の進んだ文化をもたらし、農耕や生活の進展をもたらしたのであれば “神” の面も奉じられたのではないでしょうか?

岩木山神社の祭神として田村麻呂が祀られていることからも、この考察は妥当ではないかと思えます。

また、逆に侵略されて それに抗していた当地民族の長、などという考え方も出来ますね。抵抗し大きな覇を奮ったものの、敗戦後は恭順の意を示し、田村麻呂らの持ち込んだ文化の担い手として津軽の地の反映に尽くした結果とも考えられます。

多く忌み嫌われる存在でありながらも、”鬼” はいつも “人” の隣りにあり “人そのもの” でもあるのでしょう・・。

さて、最後となりましたが、この “赤倉の鬼” は「鬼神社」に納まり、当地信仰の対象となったのですが、赤倉山には これとは別の「赤倉山神社」が鎮まっています。 前編 文頭にて触れた霞のごとき謎の社・信仰といえるでしょうか・・。

記事に載せながら恐縮ですが、実際のところ この「赤倉山神社」「赤倉信仰」については詳らかではありません。世に広く知れ渡っていないのと同じく不明の部分が多いのです。

只、朧げながらにも伝わってくるのは “巨石信仰” が根幹にあること(これにまつわり、今回の鬼伝承が関わっているらしいこと) かなり古い時代の “山岳信仰” また “オシラ様信仰” そして些かの “神降ろし信仰” と、いずれも古代信仰の色彩が非常に強い側面を持っているように思えます。

考えようによっては征夷軍がこの地に侵入し、坂上田村麻呂が神として祀られる以前、蝦夷・アイヌ文化の影響を受けながら、当地に息づいていた古代宗教の名残りとも言えるのかもしれません。

人と鬼が居場所を分かち離れたものでありながら、実は極めて間近な存在であるように、人々の奉ってきた その地の信仰にも決して一面では測れない歴史がそこにあるのでしょう・・。

 

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