修行の者さえ苛む江ノ島の美しき神 – 神奈川県

桜の季節も日々過ぎゆく中、暖かさも本格的になってきました。年度の節目ということもあり何かと忙しい昨今ながら、春の行楽に思いを馳せておられる方も多いのではないでしょうか?

2020年初頭から世界的な流行・蔓延をみた新型コロナウイルス。まだまだ その驚異は拭いきれていないものの、以前に比して多少なりとも落ち着きを見せ、マスク着用や飲食制限も緩和される中、これまでに溜まったストレスを開放させたいと思うのが人情というもの。 今年の春は人出も増えることでしょう・・。

只、医学者・研究者の間からも驚かれた 今回のウイルス “COVID-19” の特徴とは、その変異の速度と多様性であるそうで・・。 日本では “BA.2” “BH.5型” などの流行株の名が知られていますが、全体で確認されている “株” の総数は1600種、強い感染力を持つオミクロン株の亜種だけでも300種以上に登り、その数は現在も増え続けているのだそうです。 (参考:nippon.com / 新型コロナはどう収束するのか)

大半のウイルスはその流行と感染の増減に伴って変異を繰り返し、多くは攻撃性を弱める代わりに感染力を高める方向性を持つそうですが、歴史を遡った過去のウイルスに比べても今回 “COVID-19” の変異スピードは、異常といえるもののようです。

過去3年の様子をみても感染の拡大は “春先” と “夏場” に多いともみられることから、今後の動向も予断を許すものではありません。 どうか今しばらくの間、お出掛けの際は十分な体調管理と感染防止の対策をなさった上で、お楽しみいただけると幸いです・・。

さて、流行の最中でも 長い自宅待機ストレスに耐えられなかったのか、その春から夏にかけて訪問客の多かった神奈川県 “湘南海岸” 界隈。 まぁ、ずっと家に籠もっているのも辛いものですし、子供などを持つ家庭なら尚のことではないかとは思いますが、当時は何かと話題になったものでした。

とりあえず 現時点、制限解除もなされて、これからは人出も相当数増えることと見込まれますが、大きな渋滞・混乱や感染の再拡大など無く、元の活気に戻ることを祈りたいですね。

と いうわけで 本日は、春から夏の終りまで行楽客で賑わう神奈川県藤沢市、湘南海岸の陸繋島(りくけいとう)『江の島』『江島神社』にかかる往古よりの伝承をお伝えしたいと思います。

 

関東地方、特に東京から神奈川に係る一円では、比類なき海辺の観光名所である相模湾岸一帯。「茅ヶ崎海岸」「湘南海岸」「稲村ヶ崎」「由比ヶ浜」・・等々。 雄大かつ穏やかな海原を前に輝く陽射しと海岸美は、単なる行楽のメッカとしてにとどまらず、多彩なカルチャー文化の発祥地としても知られてきました。

そして 湘南海岸の東端、内陸から境川が海に達する河口に突き出るように位置する島が『江の島』です。 “日本百景” のひとつであり、古くより この地を象徴する名勝でもあるのは御存知のとおり。

現在は数百人の島民が在住し、車に乗ったまま渡ることもできる大きな橋(江の島大橋・徒歩で渡るのは江の島弁天橋)が架けられるなど、近代化の進んだ観光地として知られていますが、江の島に渡るための橋が最初に架けられたのは明治24年(1891年・江の島桟橋)だったといいます。

江戸時代から既に観光地として名高かった江の島は、桟橋の開通によって 当時の外国人観光客を含む、さらに多くの人口流入を招きましたが、この状況を一変させたのが大正12年に起こった関東大震災・・。

このときは江の島も甚大な被害を被り、桟橋は巻き起こった津波により消失。島内の大半の建物も崩壊してしまいました。 さらに地殻の流動により 島全体が2mも隆起したのだそうで・・、現在見られる海岸部の奇景は、震災後 海面上に姿を現した海蝕台なのだそうです。

江戸時代の錦絵に描かれた江の島

昭和に入って島の復興が図られ 沿線整備や桟橋の再架橋が進むと、現在に続く観光江の島の基礎が固まりました。多くの人々が江の島に戻ってきたのです・・。

しかし 往古の昔、江の島は “信仰の島” でありました。
その創始にまつわる神話・伝承は1300年前の “日本書紀” にも触れられています。

〜 天武天皇十三年冬十月己卯朔壬辰(十四日) 是ノ夕、鳴ル声有リ、鼓ノ如ク東方二聞ユ。 人集リテ曰ク、伊豆嶋ノ西北二面、自然三百余丈ヲ増益シ、更ニ一嶋ト為ルト。 則チ鼓ノ音ノ如キ者ハ、神 是ノ嶋ヲ造ル響ナリ。〜

〜 天武天皇 治世の頃、太鼓を打つような音が東方に響き聞こえ、伊豆大島の西北に一島が興った。つまり あの音は神が島を造る音だったのだ。〜

日本書紀は当時 全国の神話を集めた記録書でもありますから、物語そのものの発始ではありません。その元は さらに800年以上も遡った紀元前、開化天皇の御世であったそうです。

〜 ある夜のこと、海の一所が一面 激しく泡立つと、俄に海水が空高く噴き上がり、もうもうたる黒雲が立ち込めた。

やがて空が白んで鶏の鳴く頃になると、妙なる音色が波間に聞こえ出し、空には天女が舞い遊び、えも言われぬ芳香が辺りに漂い、次第に波も収まった。

その後には見たこともない島が興っていた。これが江の島のはじまりである。

天空を舞う天女は神々が見守られて島に降り立ち鎮まった。これこそ “弁財天女” であり、収まった場所が島の西にある岩屋である。〜

神々の超常を借りた壮大なお話ですが、現在の視点から考えれば、2000年から昔のその時、地殻変動による爆発・隆起によって島ができた様子が克明に語られているように思えます。

只、現代的な地勢学では、江の島は元々 陸続きの岬のような場所であった所が、20000年ほど前 海流の侵食によって削られて島になったものと解釈されているそうです。

しかし、6世紀 欽明天皇期の類承として、噴煙・隆起の果て21日間で島ができたという逸話が “江島縁起(えのしまえんぎ)” にも残されていることから、もしかすると、この近辺で大きな噴火があった。また伊豆大島の噴火をなぞらえて この神話・伝承が生まれたのかもしれませんね・・。

 

島 創始の真偽はともあれ、こうして江の島は “弁財天女” に護られる “神性の島” として古くから信仰の対象でありました。伝承によれば、かの “役小角” や “弘法大師” “慈覚大師” らが参籠を務め、鎌倉時代までは島全体が禁足地であったとも伝わります。

江島神社 辺津宮

現在、「江島神社」の 御祭神は、いわゆる宗像三女神の三柱です。元々 “江島明神” として崇められてきた神に宗像三女神が重なり、さらに仏教の流入・”神仏習合” によって “弁財天” が、それらの象徴として祀られた・・というのが自然な流れ・解釈でしょうか。

奉安殿には二柱の “弁財天像” が祀られており、向かって右側が「八臂弁財天(はっぴべんざいてん)御尊像」、”弁財天” がもつ “有能・金運” と “厳しさ・勝運” などの側面を表しています。

後に金運が結び付いたことから “弁財天” と表記されるようになりましたが、八臂弁財天 はその能力の高さから、古来の “弁才天” に沿う存在とも言えるでしょう。国の重要文化財となっています。

そして左側に坐すのが「妙音弁財天(みょうおんべんざいてん)御尊像」、妙音とは “美しき せせらぎの音” であり、ここから音楽・芸能の御利益が語られ、同時に “川の化身” でもある「弁財天=サラスヴァティー神」の、水運守護の側面が生まれました。

 

さらに、妙音弁財天は女性的な美しさを表出するかのように、その御姿は裸像で表されています。別名「裸弁天」とも呼ばれ、安芸の厳島、近江の竹生島と並んで “日本三大弁財天” とされているのだとか。

古代仏神像における裸像というと、象徴的な造形かと思いきや、現代的な視点から見ても充分に過ぎるほど、リアルで艶やかな体つき、白い肌の造作も相まってしばらく見惚れてしまうほどの美しさです。

鎌倉時代の作と言われますが、彫刻技術の発達とともに、それまでになかった、より高度で精細・流麗な表現を目指して裸像が刻まれたとされています。 このあたりは、木像・石膏像の差こそあれ、古代西洋の彫刻と流れは似ているようですね・・。

さておき、ここまでの妖艶な裸像が古くからあったことに驚くと同時に、当時、これを見た若き神職や修行僧の悩ましさを思うと、逆に酷な精神修行ともとれ・・何とも辛いところだとも思えてしまいます・・。

 

晴れた日には相模湾の向こうに雄大な富士をも望む「江の島」。
海岸線にある洞穴は、その「富士の人穴」までつながっているという伝承さえあります。

江の島 岩屋洞穴

今は観光地なれど古に続く弁財天の聖地でもある「江の島」。
レジャーで楽しむのも悪くないですが、より深く歴史と神性を味わいながら歩くのも また乙なもの。折を見て、ゆっくり訪問されては如何でしょうか。

次回は、同じく 水に連なるお話を、近隣、日本の首都である東京から、これまた少しだけ歴史を遡ってお伝えしたいと思います。お楽しみに・・。

「江島神社」 公式サイト

 

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