河童の画家と支える妻が残したもの – 茨城県

茨城県南部、つくば市や霞ヶ浦の南側に位置する「牛久市」、像高100m(総高120m)に達する巨大立像 “牛久大仏”(浄土真宗・牛久阿弥陀大佛)などで有名ですね。
都市圏やつくば市とのアクセスも容易で、自然に恵まれながらも整備の行き届いた、ベッドタウン都市として人気を集める街でもあります。

この牛久市の東の際、城中町の一角に、古く「雲魚亭」と呼ばれた家屋が建っています。昭和初期の趣きを色濃く残す この建物は、当時の住居であるとともに “アトリエ” でもあり、現在は 牛久市指定『小川芋銭記念館』として一般に公開されています。

「小川芋銭」(おがわうせん) 江戸時代 最期の年 慶応4年に生を受け、明治から昭和のはじめにかけて、自然の慈愛に満ち 浮世の妙味に溢れた絵を描き続けた “挿し絵画家” “日本画家” です。 面白いことに “河童” を絵のモチーフによく用いたことで “芋銭の河童か、河童の芋銭か” と囃されたそうです。

 

少し脱線しますが “河童の漫画” といえば、酒造メーカー “黄桜” のCMキャラクターを思い出される方も多いかと思います。 洒脱な河童絵で好評を博したのは漫画家 “小島功” さん、そしてその前任を務められたのが同じく漫画家の “清水崑” さんでした。
昭和30年前後、清水崑さんが連載しておられた河童絵を、当時の黄桜社長が気に入って宣伝用キャラクターに起用したのだとか・・。 (昭和テロップ関連ページ)

左 “小島功” 氏 作、右 “清水崑” 氏 作

お二人の漫画家と “小川芋銭” に歴とした関わりは見い出せませんが、彼らが得意として用いた “河童” は、ご存知のように妖怪であるとともに、人の暮し・営みに極めて近い存在でもあります。言い換えれば “人と幽玄” をつなぐ自然の具象であり、仲介者でもありました。

非実在でもある河童に 泰然の神秘と浮世の喜怒哀楽を重ね合わせ、一枚の作品に仕上げる彼らの想いには共通するものがあったのかもしれませんね。

 

小川芋銭、本名:小川茂吉、江戸期最後の年生まれと書きましたが、彼の生家は旧牛久藩の大目付役という高格・由緒ある家柄でした。武家のままであれば高禄の人生であったかもしれません。

しかし、武士の時代が終わりを告げると、彼らの大半は下野を余儀なくされ 各々町民・農民へと転職せざるを得ませんでした。 江戸藩邸で生を受けた芋銭も家族とともに旧藩領であった牛久に帰り、農民としての人生を歩みはじめたのです。

只、残念なことに、生まれつき虚弱な体質で体格にも恵まれていなかった彼にとって、田を起こし土にまみれて生きる仕事は過大な負担であり、幾度となく身体を壊したそうです。 案じた芋銭の父は、親類の伝を頼り東京の商家へと彼を送り出しますが、折からの動乱景気に湧いていた最中、ここでも長続きはしなかったようです。

やむなく伯母の家に預けられ、そこから近くの学校へ通うことになりますが、学業に関しては極めて堪能で、短期間のうちに優秀な成績を修めたといいます。 このとき凡そ13歳前後、今でいう中学一年生位でしょうか。

この頃、芋銭は伯母を通して画家・本多錦吉郎と知り合い、彼の門下生となって四年間 絵の修行に打ち込みます。 絵を描く事が最大の関心事となり、絵で身を立てることを願った彼は苦労の末、 “朝野新聞” の契約絵師としての職を得ましたが、生活は貧窮を極めたそうです。

当時の世相、また武士時代からの気質によるものでしょうか。そんな中、父から “帰郷して農業に従事するよう” 命がもたらされ、故郷 牛久へと帰り鍬を打ち振るう生活へと戻りました。 武家社会崩壊の苦労を目の当たりにした父親から見れば、画家など 食っていける仕事には思えなかったのでしょう。

しかし、絵に対する夢と信念を確固として築いていた彼は、忙しい農作業の僅かな間を縫って筆を取り続けました。 それでも父親の目には至らぬこととして映っていたようで、画業への志しは中々に認めてもらえなかったようです・・。

画業へ打ち込める契機となったのは、意外と芋銭の結婚によるものでした。
妻 “こう” の「自分が夫の分まで働くから・・」という熱意に負けた形で、以後 父は芋銭の画業に一切 口を出さなくなったそうです・・。

 

夫婦とはいえ 妻にここまでのことを言わせるのには、彼女にそんな決意をさせるだけの芋銭の熱意・情熱があったからでしょうが、覚悟を決めた女性の強さは今も昔も変わらぬもの。 以後、芋銭の仕事は生涯に渡って妻に支えられ、やがて花咲かせていきます。

画業一本に打ち込めるようになった芋銭の挿し絵・漫画は、徐々に認められるようになり その名も知られていきます。 やがて日本画の才覚をも表すようになると “横山大観” の目に止まり “日本美術院” の同人ともなりました。

芋銭は生涯に渡って農村や農民を主題にした絵を残しました。悠々とした流れの中にウィットの効いたメッセージを含めたスタイルともいえるでしょう。 民間伝承や魑魅魍魎、自然の深遠に造詣も深いが故の “河童” だったのかもしれません。

“大家的” な絵柄でないだけに格式張った評価は得難いですが、常に人の気持ちに寄り添った筆致は評論家よりも市井の民に人気でした。 故に “贋作” が多く作られた画家としても知られ、近年になって美術館が蒐集する際のネックとなるほど、だそうです。

随筆 “徒然草” に登場する泰然自若の僧 “盛親僧都(芋食和尚)” に習い、”いずれ芋を買える銭にでもなれば良い” との思いから「芋銭」の画号を名乗りましたが、一途な歩みはやがて帝国美術院の参与となるまでに進みました。 そして、そこには いつの日も愛妻 “こう” の支えがあったのです。

 

冒頭でご案内した『小川芋銭記念館 / 雲魚亭』も、芋銭の晩年に妻と長男(修一)の意向で建てられたものです。 当時、芋銭は古希記念展覧会の準備などに追われており、ここを活用していたようです。 しかし、間もなく病に倒れ一時は回復に向かうものの、約一年後 帰らぬ人となってしまいました。

昭和63年、”小川芋銭生誕120年記念事業” にあたって遺族より牛久市に寄贈され、今も “小川芋銭” の画跡と遺徳、当時の面影を偲ばせています。

小川芋銭の絵。 芸術を高尚なものと持ち上げる一部の人々、経済的な効果を期待する人々からは評価の対象となり難く、顧みられる機会も少なくなりがちですが、芸術に本当に必要なものは “心に触れる感動” 以外にありません。

古き日本の農村の姿、人に寄り添い人に笑う素朴な筆致。彼が残したものを今一度振り返ってみる。そんな時期が来ているのかもしれませんね。

牛久市指定 『小川芋銭記念館』(雲魚亭) 公式サイト

場  所 : 茨城県 牛久市城中町2690-3

開 館 日 : 土曜日,日曜日,祝日のみ ただし12月28日~1月4日は休館

開館時間 : 9:00~17:00(4月1日~9月30日) 9:00~16:00(10月1日~3月31日)

入 場 料 : 無料

問い合わせ : TEL.029-874-3121 牛久市教育委員会文化芸術課文化財グループ

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